血と肉と死と

文字数 2,820文字

 男は温もりを知らなかった。

 誰かの手に触れたことも無ければ、誰かの肌の温かさ知らず。彼を産んだ母の温もりも、男には未知の存在だった。

 男の知る温かさとは傷口から噴き出る血飛沫の生温かさと、剣で斬られた際に感じる熱感触。己の傷から溢れ出る血は時間と共に冷え固まり、顔面に付着した敵の血は鉄臭くも温かい。男が認識する誰かとは敵であり、彼の知る温もりとは血肉である。

 剣で斬られれば熱と痛みを伴い温もりを知る事が出来る。敵を殺し、鮮血を浴びれば確かな温もりを感じることが出来る。血と肉と死と……それが男を取り巻く現実であり、戦奴として生かされている己の世界の全てだった。

 剣を振るい、如何に効率的に敵を殺すのか。一人を殺すまでは恥辱と屈辱に塗れていた。幼少期から蟲毒の外法によって生き続けていた男は、必要とあらば恥や外聞を捨ててまで同じ檻で育った者を殺す。何度も、何度も、何度も、最後の一人となるまで死肉と屍血に囲まれていた男の剣技と殺意は死に濡れていた。

 戦いと死は常に隣り合わせであり、男が送られる戦場は常に激しい戦火に巻かれていた。幼子は炎に焚べられ、女は奴隷として捕らえられ凌辱の限りを尽くされる。兵士として戦った者は首を縄で繋げられ、労働用の奴隷と価値の無い者に分けられ処分される。血に塗れ、罅割れ砕けた剣を握り締めた男は、炎に焼かれる人間だったモノをジッと見つめ、真紅の瞳に憎悪を滾らせる。

 温かい血が流れ、熱い炎が身を照らす。鮮血に塗れた男の身体は真紅の瞳同様、紅に染められる。戦場となった町で勝利に酔いしれる帝国の兵は彼を見た瞬間に息をするのも忘れ、畏怖と畏敬の念を抱かざるを得ない。

 最も多く人を殺し、たった一人で真正面から敵の陣形を切り崩した男は戦場であれば英雄と称えられてもおかしくはない。だが、男は戦奴であり、褒賞や褒美を賜われる立場ではないのだ。今の戦争が終われば次の戦場へ送られ、また人を殺す。彼は英雄と呼ばれる存在ではなく、単なる殺戮者に過ぎない。

 男へ話しかけたり触れる者は居ない。彼の破壊された鎧に触れてしまえば、凶刃が振るわれる先は己の首であるからと錯覚したしまうから。彼に声を掛けてしまったら一欠けらの人間性が失われ、狂人の牙が己に剥くと錯覚してしまったから。触れてはならない、認識してはならない、男を人として見てはいけない。炎を眺めている男は一人の戦奴であり、同じ人間ではないのだから。

 男の真紅の双眼が荒れ果てた町を一望する。町を破壊し、駆け抜けた己が斬った人間の数は裕に百を超えていた。殺して、斬って、駆けて、また殺す。剣が折れても殺した兵から剣を奪い取り、罅割れ砕けてしまってもまた奪う。殺して、殺して、殺し尽くした先にあるものは

の勝利と男の虚無感だけだった。

 戦争がもたらすのは搾取と支配である。勝者は敗者に無慈悲なる制裁と半死半生の支配を行い、敗者は抗う術も無く従わざるを得ない。強欲なる帝国は世界の覇者となる為に戦火を以て周辺国家を攻め落とし、奴隷として捕らえた者を男であれば戦奴として起用し、女であれば赤子を孕ませ民族浄化と共に戦力を産み出させた。

 死に近い生物であればあるほど出産能力や個々の能力は上昇する。生存能力、戦闘能力、繁殖能力、上昇した生物の能力は個々の遺伝子に刻まれ、子を産めば産む程次代の能力は向上する。野生動物や生死の間隔が短い草花であれば遺伝は短期的に進むのだが、寿命が長く生存性が高い人類は動植物に比べ遥かに遺伝的能力は劣る。

 子が生まれる速度と遺伝的能力が密接に関係し、人類の能力が個々人とその子の生死に関連している。故に、強力な個体を産み出し戦力として起用したいと目論む帝国の技術者は一つの儀式と外法を完成させる。それは、短期的な妊娠と出産を可能とする儀式の術式と、戦わなければ生き残れないという意識の刷り込みを行う蟲毒の外法である。

 奴隷を用いた短期間的な妊娠と出産で個体を選別し、強い個体であれば蟲毒の外法を用いて戦いの意識を埋め込み戦奴として起用する。戦いの為だけの個体に温もりや感情は不要。赤子の頃より剣を持たせ、幼少期にかけて殺し合いをさせてより強力な個体を選別する。そして、最後の一人として生き乗った者は戦奴して起用し、戦場に放つ。男の出生と無意識下に蠢く殺意は儀式と外法の集大成であり、戦奴にまで辿り着いた個体は男一人だけだった。

 無数に生まれた赤子は剣を持った段階では無垢なる者。だが、人間としての本能や残酷性に目覚める幼少期を迎えた段階で、多くの者が殺し合いという過酷な現実に耐え切れず自死を選び、発狂した。

 いくら叫び、慟哭しようが檻の扉は開かれない。奴隷の腹から産まれた子には権利など存在せず、殺し合いの義務だけが強いられていた。涙の中で他者を殺し、罪悪に耐え切れなくなった者から自死を選ぶ中、男は淡々と剣を振るい血に濡れる。

 誰かが憎かったわけではない。誰かに怒っていたわけではない。ただ彼の中には殺意という明確な感情が存在し、血肉と傷による温もりだけを求めていた。

 炎と血、真紅と紅蓮。彼の耳にこびり付く叫声は止まらない。己の殺した者が誰であろうと、何故殺さなければいけなかったのかと、その問いに答えられる者は存在しない。真紅の瞳に映るものは、瓦礫と化した廃墟と死体の山、燃え盛る炎の向こう側で嬲られている女、面白半分に妻と娘が犯されている光景を見せられた後、首を切断された男……地獄と形容するには相応しい光景が広がっているばかり。

 歪で不気味、醜悪にして邪悪。耐え難い憎悪と燃え盛る憤怒が男の心を埋め尽くし、何故肉塊が肉塊を穢しているのか理解し難い。頭の天辺にまで昂った殺意が無意識の内に男の足を進ませ、血を垂れ流しながら折れた剣を握り締め、女を嬲る兵に近づく。

 兵が男に怯えた目を向け、何かを話す。だが、男の耳は兵の言葉の意味を理解せず、折れた剣を振るうと彼の首を歪に斬り裂いた。

 鮮血が男の頬に飛び散り、真紅の瞳が武器を構えた兵を映す。

 意識に刷り込まれた殺意が叫ぶよりも、男が抱いた意思が激情を叫ぶ。殺せ、殺せ、不要と断じた存在を、己に牙と剣を向ける存在を殺戮せしめよと叫ぶ。

 憤怒の手が死した兵の剣を奪い、鞘ごと顔面を叩き割る。流れるような動きで真剣を抜き、斬り掛かって来た兵を次々と斬り捨て、その場にある殺傷能力を持つ物体を武器として使いこなし死体を量産する。

 百人程度では相手にならない。男を殺すには至らない。傷による痛みと流血をものともせず、殺戮を始めた男の姿は悪鬼修羅。短時間で生き残った兵を殺し尽くした男は、大きく息を吐くと血塗れの手で自らの頬を撫で、温もりを感じる。

 後に帝国の英雄と称えられる男の生はこの時より始まった。血と肉と死の中で、炎を背に立つ男の歩みと罪悪の道は、屍により舗装されたものだったのだから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み