白雪 ②
文字数 2,490文字
ずっと、一人だと思っていた。
目が覚めれば視界に映るは蒼の壁。一人涙を流し、悲哀と絶望に濡れていた少女は、白い人型の靄を見つめ、声を上げて泣き咽ぶ。
奇跡という言葉は絶対に起こり得ない事象に対する名称なのだ。人が歩み、進む道に起こる何かしらの出来事が既に定まっているものならば、奇跡は起こり得ない。光を求めて足掻き、希望を掴み取ろうとして藻掻いても、奇跡は起こり得ないし、成し得ない。
「イーストリアさん……貴女は一人じゃない。貴女の同胞はずっと、此処で貴女の涙を見続けていた。悲しみ、苦しみ、絶望する姿を救いたかった。だけど、既に死した者が現世に生きる者に手を貸すことは出来ない。生者だけが……命ある者だけが、誰かを救うことが出来るのです」
サレナが音も無く立ち上がり、一歩退く。すると、靄の一人がイーストリアを抱き締めた。
冷たくも、温かい。少女を抱き締める靄は塔の地下から湧き出す膨大な魔力とサレナの破界儀の断片により生前の姿を取り戻し、白雪を思わせる美しい白髪……イーストリアと似た面持ちを持つ女性へ姿を変える。
「お母さん……」
ふわりと香る優しい匂い。少女の母は眼に目一杯の涙を溜め、強く、強く、彼女を抱き締める。
「イーストリア……。私の愛しい娘……。一人にさせて……ごめんね」
「……」
「一族の使命に縛られなくてもいい。私達が背負っていた運命に従わなくてもいい。貴女は貴女だけの道を進みなさい。私達は……もうこの世をさってしまうけれども、ずっと、ずっと、貴女の記憶の中で生き続けるの。そうでしょう? イーストリア」
もしも奇跡があったとしたならば、今この瞬間こそがイーストリアに齎された奇跡と云えるのだろう。
一度は失い、悪意によって命を落とした同胞が一人、また一人と歩み出て、少女の頭を撫でる。ある者は励まし、ある者は勇気の言葉を掛け、微笑みを浮かべる中、イーストリアは母の胸を涙で濡らす。
恐らく……いや、少女はこの奇跡が永久に続かないことを心の何処かで理解していた。己を包み込む優しさも、温かな微笑みも、時間と共に消えて往く。雪雲から舞い降りる白雪のように、溶けて消えるものだとイーストリアは分かっていた。
己の同胞は……一族は塔が放出する毒によって死に絶えた。雪原の気候を狂わせ、永遠に消えぬ凍土へ変貌させた毒はイーストリアという年若い少女だけを残し、彼女が住む小さな村を氷で包み込み、粉砕したのだ。
偶然が少女を生かし、絶望が彼女の歩む道を整えレールを敷く。エルストレスが生み出す絶えぬ欲望がイーストリアを焼き焦がし、その心が抱いた小さな意思と誓約を打ち砕き、叩き潰す。
こんなに苦しむならば、いっそのこと死んでしまいたかった。耐え難い恥辱の日々から抜け出したいと願い、自死を選び取れる勇気も無い己は万物に癒しを与える涙の主……。云わば、生産機のようなモノ。
「……お母さん、私は本当は、死んでしまいたかった」
「……」
「死ねばみんなに会えると思った。命を失くせばこの苦しみと悲しみから解放されると思った……。けど、死ねなかった。自分で死ぬ勇気が、無かった」
利用され、搾取され、支配され続ける。それが己の運命だとイーストリアは半ば諦めに近い感情を抱いていた。
「けど……出会ってしまった。あの炎に……真紅の瞳を持つ英雄に……。お母さん、私は、生きていてもいいのかな? みんなが死んでしまった瞬間に立ち会えなかった私が……みんなより長生きしてもいいのかな? 私に……この指輪を嵌める資格はあるのかな? 自由を……希望を求めて、明日に手を伸ばしてもいいのかな?」
「……イーストリア」
「……」
「その選択は全部、貴女が決めることよ。私達が貴女にどうなって欲しいかとか、どんな人生を歩めなんて言える筈が無い。お母さんとお父さん、そして村のみんなは貴女が知っての通り既に命を落とした者。死者が生者に望めることなんて……一つしかないのだから」
「望む……こと?」
えぇ……と、少女の母は涙を拭い、結晶をイーストリアが嵌める指輪に落とす。
「生きて欲しい。どんなに泣いてもいい。生きている間……貴女が見定めた道がどんなに険しくても、苦難と苦痛に満ちていても、私は貴女に生きて欲しい。自分だけの心で世界を見て、言葉を聞いて欲しい。それが……お母さんとお父さん、そしてみんなが望むことなの」
「……お母さんッ!!」
全てがぼやけ、母の姿が透過する。
別れの時間が近づいていた。イーストリアの周りに立っていた精霊種の同胞が一人ずつ姿を消し、餞別代りに己の涙を一滴ずつ蒼白の指輪に落とし逝く。
「嫌だ!! 行かないで!! もっと、一緒に居てよ!! みんな、嫌だ!! 行かないで!! 消えないで!!」
「……大丈夫、もう、貴女は一人じゃない。そうでしょう?」
「そんなことッ!!」
スッと、母の指先が真下を指差すと同時に塔全体を震わせる轟音が鳴り響いた。
「貴女はもう自分の力の使い方を知っている。まだ一歩、とても小さくて、それでいて大きな一歩を踏み出せていないだけ。だから……貴女が信じる英雄を、貴女を信じてくれる誰かを今度は貴女が助けてあげて?」
「……お母さん、私、みんなのことを!!」
最期に……己が身が消える瞬間にイーストリアの頭を撫でた母は「愛してる……今までも、これからも、貴女を愛してる。だから、頑張って……イーストリア」と呟き、光の粒子へ変わる。
「……私も、絶対に、忘れない。みんなが、大好きだったから。だから、生きるよ。生きて、進んで、強くなれるように、頑張るから。だから、見てて……安心してね……みんな」
蒼白の指輪を握り締め、立ち上がったイーストリアは涙を拭い、掌に魔力を集中させる。
一粒一粒に膨大な魔力を宿す涙の結晶が蒼白の指輪に呼応し、イーストリアだけが振るえる蒼の大杖を織り成し。
「……みんな、力を貸して。私に、絶望と闇を払える勇気を頂戴。歩む為に、アインさんを助ける力をこの手に!!」
己の秘儀を発動させる段階へ至らせた。
目が覚めれば視界に映るは蒼の壁。一人涙を流し、悲哀と絶望に濡れていた少女は、白い人型の靄を見つめ、声を上げて泣き咽ぶ。
奇跡という言葉は絶対に起こり得ない事象に対する名称なのだ。人が歩み、進む道に起こる何かしらの出来事が既に定まっているものならば、奇跡は起こり得ない。光を求めて足掻き、希望を掴み取ろうとして藻掻いても、奇跡は起こり得ないし、成し得ない。
「イーストリアさん……貴女は一人じゃない。貴女の同胞はずっと、此処で貴女の涙を見続けていた。悲しみ、苦しみ、絶望する姿を救いたかった。だけど、既に死した者が現世に生きる者に手を貸すことは出来ない。生者だけが……命ある者だけが、誰かを救うことが出来るのです」
サレナが音も無く立ち上がり、一歩退く。すると、靄の一人がイーストリアを抱き締めた。
冷たくも、温かい。少女を抱き締める靄は塔の地下から湧き出す膨大な魔力とサレナの破界儀の断片により生前の姿を取り戻し、白雪を思わせる美しい白髪……イーストリアと似た面持ちを持つ女性へ姿を変える。
「お母さん……」
ふわりと香る優しい匂い。少女の母は眼に目一杯の涙を溜め、強く、強く、彼女を抱き締める。
「イーストリア……。私の愛しい娘……。一人にさせて……ごめんね」
「……」
「一族の使命に縛られなくてもいい。私達が背負っていた運命に従わなくてもいい。貴女は貴女だけの道を進みなさい。私達は……もうこの世をさってしまうけれども、ずっと、ずっと、貴女の記憶の中で生き続けるの。そうでしょう? イーストリア」
もしも奇跡があったとしたならば、今この瞬間こそがイーストリアに齎された奇跡と云えるのだろう。
一度は失い、悪意によって命を落とした同胞が一人、また一人と歩み出て、少女の頭を撫でる。ある者は励まし、ある者は勇気の言葉を掛け、微笑みを浮かべる中、イーストリアは母の胸を涙で濡らす。
恐らく……いや、少女はこの奇跡が永久に続かないことを心の何処かで理解していた。己を包み込む優しさも、温かな微笑みも、時間と共に消えて往く。雪雲から舞い降りる白雪のように、溶けて消えるものだとイーストリアは分かっていた。
己の同胞は……一族は塔が放出する毒によって死に絶えた。雪原の気候を狂わせ、永遠に消えぬ凍土へ変貌させた毒はイーストリアという年若い少女だけを残し、彼女が住む小さな村を氷で包み込み、粉砕したのだ。
偶然が少女を生かし、絶望が彼女の歩む道を整えレールを敷く。エルストレスが生み出す絶えぬ欲望がイーストリアを焼き焦がし、その心が抱いた小さな意思と誓約を打ち砕き、叩き潰す。
こんなに苦しむならば、いっそのこと死んでしまいたかった。耐え難い恥辱の日々から抜け出したいと願い、自死を選び取れる勇気も無い己は万物に癒しを与える涙の主……。云わば、生産機のようなモノ。
「……お母さん、私は本当は、死んでしまいたかった」
「……」
「死ねばみんなに会えると思った。命を失くせばこの苦しみと悲しみから解放されると思った……。けど、死ねなかった。自分で死ぬ勇気が、無かった」
利用され、搾取され、支配され続ける。それが己の運命だとイーストリアは半ば諦めに近い感情を抱いていた。
「けど……出会ってしまった。あの炎に……真紅の瞳を持つ英雄に……。お母さん、私は、生きていてもいいのかな? みんなが死んでしまった瞬間に立ち会えなかった私が……みんなより長生きしてもいいのかな? 私に……この指輪を嵌める資格はあるのかな? 自由を……希望を求めて、明日に手を伸ばしてもいいのかな?」
「……イーストリア」
「……」
「その選択は全部、貴女が決めることよ。私達が貴女にどうなって欲しいかとか、どんな人生を歩めなんて言える筈が無い。お母さんとお父さん、そして村のみんなは貴女が知っての通り既に命を落とした者。死者が生者に望めることなんて……一つしかないのだから」
「望む……こと?」
えぇ……と、少女の母は涙を拭い、結晶をイーストリアが嵌める指輪に落とす。
「生きて欲しい。どんなに泣いてもいい。生きている間……貴女が見定めた道がどんなに険しくても、苦難と苦痛に満ちていても、私は貴女に生きて欲しい。自分だけの心で世界を見て、言葉を聞いて欲しい。それが……お母さんとお父さん、そしてみんなが望むことなの」
「……お母さんッ!!」
全てがぼやけ、母の姿が透過する。
別れの時間が近づいていた。イーストリアの周りに立っていた精霊種の同胞が一人ずつ姿を消し、餞別代りに己の涙を一滴ずつ蒼白の指輪に落とし逝く。
「嫌だ!! 行かないで!! もっと、一緒に居てよ!! みんな、嫌だ!! 行かないで!! 消えないで!!」
「……大丈夫、もう、貴女は一人じゃない。そうでしょう?」
「そんなことッ!!」
スッと、母の指先が真下を指差すと同時に塔全体を震わせる轟音が鳴り響いた。
「貴女はもう自分の力の使い方を知っている。まだ一歩、とても小さくて、それでいて大きな一歩を踏み出せていないだけ。だから……貴女が信じる英雄を、貴女を信じてくれる誰かを今度は貴女が助けてあげて?」
「……お母さん、私、みんなのことを!!」
最期に……己が身が消える瞬間にイーストリアの頭を撫でた母は「愛してる……今までも、これからも、貴女を愛してる。だから、頑張って……イーストリア」と呟き、光の粒子へ変わる。
「……私も、絶対に、忘れない。みんなが、大好きだったから。だから、生きるよ。生きて、進んで、強くなれるように、頑張るから。だから、見てて……安心してね……みんな」
蒼白の指輪を握り締め、立ち上がったイーストリアは涙を拭い、掌に魔力を集中させる。
一粒一粒に膨大な魔力を宿す涙の結晶が蒼白の指輪に呼応し、イーストリアだけが振るえる蒼の大杖を織り成し。
「……みんな、力を貸して。私に、絶望と闇を払える勇気を頂戴。歩む為に、アインさんを助ける力をこの手に!!」
己の秘儀を発動させる段階へ至らせた。