沁みる心隙 ④

文字数 2,729文字

 「……死を許せない?」

 「死など許せないし、認めない。個人が積み重ねてきた何もかもを無に帰し、今を生きている者が嘆く様など見たくない。故に、私は生者こそが特別であり、死者など無価値であると断じよう。……この意思と誓約が間違っていたとしても、私自身が抱いた思いは曲げたくはない」

 死は無意味、死者は無価値と断じたアクィナスは手を握り、深い溜息を吐く。

 「……涙を見た、弟が泣き、産まれたばかりの妹が泣き止まなかった光景が私の記憶にこびり付いている。強くならなければならなかった。もう誰かの涙を見たくなかったから、守らねばならない者が嘆く様を見たくなかったから、私は強くなりたかった。だから私は誓ったのだ、自分自身に。生者だけが特別であり、死者は無価値であると」

 「……」

 「戦士と兵、民と将は私を黄金の英雄と呼び慕う。だが、私は英雄などではない。戦場で槍を振るうも、戦い続けるのも、ただ私の我が儘を貫き通したいだけなのさ。私が思う真の英雄とは、人類の為に戦い続ける者達を指す。そう、戦場で剣を振るう戦士と兵こそが、英雄として敬われる者なのだろう」

 己は英雄と呼ばれる器ではない。死を認めず、許さない為に戦場で戦い続ける己は自分の我が儘を押し通したいだけであり、身勝手さを貫き通したいだけ。

 真の英雄には成れず、聖王の黄金槍と呼び慕われる空洞の英雄。それが、アクィナスという男なのだ。彼は自身に課した意思と誓約により、死者を認識出来ず、生者だけを特別と称する者である故に、己自身を矛盾の螺旋迷宮へ落とし込んでしまった。

 「……少し話し込んでしまったな。君は休んだ方がいい、明日にはサレナの転送門で聖都に帰るのだろう?」

 「……アクィナスは」

 「何だい?」

 「君は誰かの為に強くなろうとしたんでしょ?」

 「そうだね」

 「けど、それは誰かの痛みを取り除きたいという渇望から来るものなんじゃないかな? 君言ったよね? 弟と妹の涙を見たくないと、守らなければならない者の嘆きを聞きたくないと……。だから、君は自分自身の痛みを無くし、強くならなければならなかった」

 死を認めず、許さない。今を生きている生者だけが特別であり、死者は無価値である。死者を想ってしまえば彼は痛みを感じてしまう。守れなかったという自責の念を背負い込み、無力な自分に絶望してしまう。絶望してしまえば、黄金の英雄という硝子の虚像は砕けてしまう。

 強くなりたかった。強くならなければならなかった。強く在らねばならなかった。強く、強く、果てしなく強く……。誰かの涙も、嘆きも、全てを振り払える者になりたかった。家族の涙を見たあの日、色取り取りの花々に囲まれた女性の亡骸を見た日から、アクィナスは誓ったのだ。自分だけは生きている者を記憶し続け、守り抜こうと、そう誓った。

 「痛みを無視して強くなっても、何時かは絶対に破綻する。希望を燃やし続ける薪が無くなった時、そこに残るのは黒ずんだ消し炭だけ。アクィナス、私は死者を無価値とは思えない。ましてや、死は無意味だとも思わない。……死者にだけ出来ることだって、ある筈なんだ」

 「痛みを抱えて戦い続けた先に何がある? 私は痛みをなんて抱えていない。戦場で戦う戦士と兵は英雄であり、今を生きる者達は皆特別だ。私は聖王の黄金槍として、黄金の英雄として」

 「ハッキリ言えばいいかい? アクィナス、君は自分自身を薪にして燃え盛る希望の象徴としてあろうとしているだけだ。燃え続ける薪なんて在りはしない、自然に火が着く薪も在りはしない。人は……一人だけじゃ戦えないんだよ」

 そうだ、人は一人だけじゃ戦えない。強大な力を持つ敵と戦った時、たった一人で戦い続けてきた者は必ず敗北する。それは英雄であっても、戦士や兵であっても、変わらない事実。

 アイン……黒い甲冑を纏った一騎当千の剣士であっても、上級魔族ドゥルイダーとの戦いは生と死の狭間を行き来する死闘であった筈だ。彼がドゥルイダーに勝てたのも、自身の意思と誓約があったからであり、サレナを守り通す強靭な精神があったから。もし、そう、もし彼の魔族と戦っていたのが己とアクィナスであったならば、敗けていた。

 「確かに絶望を打ち破る力は意思と誓約から生まれるだろうね。けど、先の戦いを思い出してみてよ。アイン程の剣士が龍に対して真面に剣を突き立てられたかい? 彼の殺意と激情がたった一人で肉と鱗を斬り裂けたかい? 出来なかっただろう?   あの場に居た全員……サレナちゃんとアクィナス、そして私が居たからアインは龍に刃を突き入れることが出来た。だからアクィナス、君は一人で抱えるべきじゃない。君が言う戦士と兵が英雄であるのなら、君一人の力で戦い続けるんじゃない」

 「……」

 強くなれば誰かの涙を止めることが出来ると思っていた。

 「……」

 強く在れば誰かの嘆きを止めることが出来ると思っていた。

 「……」

 だが、強く在っても、強くなっても、戦いが終わらない限り涙と嘆きは止まらない。この手が届く全ての者の悲しみは拭えない。

 どうしたら涙を止められる? どうしたら戦いを終わらせることが出来る? 何故こうも世界は終わらぬ理不尽と不条理を生命に課す? 人は死に、また産まれ、慟哭を繰り返す。

 「……私は」

 希望を示す意味があるのなら。希望を焚べる理由が己にあるのなら。

 「始めに抱いた願いを、祈りを、思い出さなければならない。戦いが終わらないのなら、世界の不条理と理不尽が生命を脅かすのならば、この黄金槍で全てを照らしたいと願うだろう。だが、それでも、忘れてはならないことがあった」

 家族の流す涙は見たくない。嘆きを聞きたくない。だから、己は長兄として、弟と妹の心を守らなければならなかった。それを、何時しか忘れていた。忘れていたから、変わってしまったのだ。今を生きている生命は特別であり、死者は無価値であると、変質してしまった。

 「……初心忘れるべからず、か」

 ただ強さを求めても意味は無い。強くなるための意味と理由、何故その強さを求めたのか、忘れてはならなかった。家族を守り、その心を守り通す為に己は力を求めたのだ。涙と嘆きを打ち払える力を、手に入れたかったと。

 「忘れてはいけないな、理由と意味を。何故力を求めたのかを」

 「うん」

 「……クオン」

 「なに? アクィナス」

 「少しだけ手伝ってくれないか? 書類を纏めて欲しいんだ」

 「分かった。どこからやればいい?」

 「そうだな、先ずは」

 戦死者リストから片付けよう。そう言ったアクィナスの脳裏には、花々に囲まれていた女性……己に力を求める意味をくれた

の顔が、浮かんだのだった。
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