日記 ②

文字数 2,762文字

 日記帳を開き、新品同然の筆を握ったメイリアルは月明かりを頼りに線を引く。

 少女は文字の読み書きを知らなかった。たった一人の母の手伝いを続け、貧困と差別に曝される少女は村に居場所など無い。彼女は久しぶりに母と安らかな時間を過ごすとランプが消えた小屋の片隅で、ありもしない思い出を日記帳に絵として残す。

 数人の少年少女に囲まれた己と、その手に持つぬいぐるみ。快晴の空を描き、多くの友人たちに囲まれている自分を夢想したメイリアルは、そんなものは在り得ないと分かっていた。友達という存在を知らず、誹られ続け、蔑まれる者こそが己であると幼心で理解してのだ。

 声を出さずに涙を流す。眠っている母を起こすまいと少女は嗚咽を抑え、手の甲で流れ出る涙を拭う。幾ら願っても、どれだけ祈っても、自分が生きる環境と事情は変わらない。変えたいとしても、幼い己に与えられる方法は限られ多くの制約を科せられている。それを否定したくとも、彼女自身が理解しているから動けずにいた。

 「……メイリアル?」

 「ッ!!」

 「どうしたの? いらっしゃい、久しぶりに一緒に眠りましょう?」

 月明かりに濡れた小屋の一室で、涙で濡れた顔を見せたくはなかった。心身共に疲れ果てている母にいらぬ心労を負わせたくなかった。少女は暫し黙り、目元を必死になって擦ると涙の跡を揉み消し、日記帳を胸に抱く。

 「えっと、日記帳にね、何を書こうかと考えていたの」

 「そうなの? 今日はもう遅いんだから、眠りなさい。明日になったら、少しだけ文字を教えてあげるわ」

 「お母さん、仕事はいいの?」

 「せっかく紙と筆があるんだもの、貴女の為なら一日くらい大丈夫よ。さぁ、一緒に寝ましょう? メイリアル」

 少女は低く、浅い呼吸を繰り返し、母の布団に潜り込むとその体温と優しい匂いに顔を埋める。

 何時ぶりだろう? こうして母の温もりを感じるのは。最後に一緒に眠ったのは、記憶が霞む程昔の出来事で、それ以外は何時も仕事をしている母の背中だけが少女の記憶にあった。

 「ねぇお母さん」

 「なぁに? メイリアル」

 「お母さんは、私が居て幸せ?」

 「当たり前じゃない。貴女が居るだけで、私は幸せよ」

 「……うん」

 自分が居なければ母はもっと楽に暮らせるのではないだろうか? 自分が居るから貧困に苦しんでいるのではないだろうか? 少女は母が働く姿だけを見て育ってきた故に、己の存在が邪魔でしかないと思い込む。

 「メイリアル」

 「……」

 「私はね、貴女が居るから頑張れるの。貴女の為なら苦しくないし、辛くも無い。もし、もしもね、貴方に好きな人が出来たら私のことを気にせず一緒になりなさい。メイリアルの幸せが、私の幸せなんだから」

 「私、お母さんを置いて何処かに行けないよ」

 「いいのよ。人の人生にあれこれ言う程私は偉くないし、貴女の人生は貴女自身のものなんだからね? ……メイリアル、貴女がいいのであれば、本当はもっと世界を知って欲しい。この小屋と村以外の場所を、知って欲しいの。人魔闘争なんか知らずに、自分だけの世界を得て欲しい」

 「……」

 何と答えればいいのか分からなかった。貧しさの中で生を得る日々を過ごしていた少女には世界なんて大きな存在は理解出来なかったし、人魔闘争なんて言葉も分からない。だが、母の言葉はメイリアルの心に沁み込み、大きな意味を与えようとしていることだけは分かる。

 「私は母として貴女に何も出来なかった。けど、貴女の為に少しずつだけどお金を貯めていたわ。だから、もし私が命を落としてしまったら、棚の奥にある魔導箱を開けてね? 其処にお母さんからの贈り物が入っているからね? 忘れないで、メイリアル」

 「……うん。けど、どうしたの? 何だか、少し変だよ、お母さん」

 「……」

 「お母さん? お母さん!?」

 母の温かさ……それは、肉体が発する熱反応。メイリアルが布団を剥ぎ、母の額に手を当て、己の額と熱を比べると少女の母の方が明らかに体温が高く、頬が紅潮している様子が見て取れた。

 「お母さん!! ねえ、どうしたらいいの!? お母さん!!」

 そうだ、薬だ。仕事机の引き戸を開き、母が飲んでいる薬を探すが見当たらない。何度も何度も手を突っ込み、中に入っていた針や糸、布切れを出して薬を探したが、粉薬が包まれた薬包は見つからなかった。

 どうしたらいい? 薬が無いと母が死んでしまう。そんなのは嫌だ、絶対に嫌だ。焦りと迷いがメイリアルの思考を支配し、両足をその場に縛りつける。

 「そ、そうだ、お医者さんに、薬を貰って来ないと!」

 息を切らし、大きく咳き込む母を一瞥した少女は意を決して小屋の外へ飛び出した。雨が降っていようと、泥に塗れようと、彼女は村を目指して走り出す。母の為、たった一人の肉親の為に、夜道を駆ける。

 「お母さん……! お母さん!」

 ぬかるんだ道に足を捉われ頭から地面に転び、少女の若草色の髪に泥が降り掛かる。痛みで視界が滲み、焦りと悲しみで涙が流れる。それでも彼女は息を切らしながら村へ急ぎ、明りが灯る民家の扉を叩いた。

 「すみません!! お母さんが!! お願いします!! 扉を開けて下さい!!」

 扉の向こう側からは一家の談笑が聞こえ、少女の声が届いていないようだった。いや、聞こえてはいるものの、聞こえていないフリをしているのだ。メイリアル母娘に関わりたくない故に、良心をかなぐり捨てて村長の意思に従う村人は誰一人として少女の声に耳を貸そうとはしない。

 「お願いしま」

 「うるせぇな!!」

 扉が開かれた先に立つ男がメイリアルの頬を殴り、彼女を地面に叩き倒す。

 「俺達に関わるな! 五月蠅い売女の子が!!」

 「お、お願い、お母さんが……」

 男の背後に立つ子の瞳に侮蔑の念が宿り、妻と思わしき女には軽蔑の念が見えた。少女を一瞥した男は扉を勢いよく閉める。

 よろけながら立ち上がり、次の家の戸を叩くが皆同じ反応を示し、少女の声に耳を貸すことは無い。何度も、何度も、何度も戸を叩き、声を上げたが村人は誰一人として少女に力を貸さなかった。

 深い絶望と憎悪、憤怒がメイリアルの心の中に宿り、誰も助けてくれない現実に笑いが込み上げてくる。希望を失い、涙と雨に濡れた少女は力無くその場にへたり込み、真っ黒い空を見上げた。

 何故こうも不幸な目に遭わなければならないのだ。何故こうも自分達だけが忌み嫌われる。この世界には、自分には、明日も無ければ希望も無いのか? どうして、どうして、どうして……。

 一頻り泣き、乾いた笑い声を上げた少女は諦めたように小屋へ戻る道を歩き、泥と雨に濡れたまま母の傍に座ると手を握る。苦しむ母が、少しでも楽になれるようにと、祈りながら少しだけ冷たくなった手を握り続けた。
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