望み ①

文字数 2,543文字

 イエレザの指先が一定のリズムを刻み、テーブルの板を叩く。

 不機嫌なのか、上機嫌なのか。アインと話していた時のような感情の浮き沈みは彼がこの家から立ち去った瞬間に消え失せ、のっぺりとした無表情の仮面を顔に張りつけた少女は時間を計るかのように指先でテーブルを叩き続けていた。

 上級魔族イエレザ……物心ついた瞬間、実の両親を影に取り込み己の一部にした圧倒的な力を持つ魔族。

 彼女は一見すれば可憐な少女のように思えるが、溢れ出る魔力と空間を歪ませる力の奔流は一般的な魔族と比べ物にならない程に強大で、ただ黙っているだけなのに底知れない恐ろしさと圧力を他者に与え続ける強者の一人。実際、イエレザを前にしたムルスとセナはただ彼女の一挙一動に視線を向ける事しか出来ずにいた。

 「別に警戒しなくても宜しくてよ? 私は本当に何もする気が無いんだから」

 嘘か真か戯言か。イエレザの黒い瞳がムルスとセナを見据え、歪んだ笑みを向ける。

 「この問題は貴方達一家の問題であり、介入する者はアイン様とミーシャの二人だけなのだから。その棒切れを下ろしたらどう? ムルス」

 「……」

 「随分と警戒しているのね? 貴男の奥方……セナの方も残り少ない魔力を私に向けているようだし、あまり無理をしない方がいいと思うわよ? どうせ貴方達が二人掛かって来ても無意味なんだから」

 無意味に命を散らすのは嫌でしょう? イエレザの仮面が僅かに罅割れ、獰猛な殺意が垂れ落ちる。殺意に触れたジュナが泡を吹きながら気を失い、息子に駆け寄ったセナを守るかのようにムルスが剣を構えた。

 「イエレザ様」

 「殺しちゃいないわよ、安心なさい。同族殺しの制約がある以上私達は殺し合いが出来ないでしょう? それに、これからする話に子供は不要なの」

 「……」

 生唾を飲み込み、冷えた汗が額から流れ落ちる。

 噂によればイエレザは同族殺しの制約を無効化し、同じ魔族であろうと殺すことが出来ると聞く。今この場で戦えば、十中八九敗ける。妻と息子を守れずに、無意味に殺されてしまう。ならば……少しの時間を稼ぐ他術は無い。

 何時仕掛ける。今か、隙を見せてからか。いや、迷っている間にも命の危機は着々と距離を詰め、少女の殺意に己の闘志が屈してしまう。なら、剣を振るうタイミングは。

 「落ち着きなさいな。話がしたいだけよ、此方は。そうね……貴男と奥方についての話を聞きたいの」

 「……というと?」

 「……何方から関係を迫ったの?」

 「……は?」

 「いえ、私はそういう話に疎くてね。あの人……アイン様の前では少々自分を立てて話してしまう節があるの。男と女……やっぱり男から関係を求めてくれた方がその、嬉しいと思わない?」

 少女の頬が僅かに紅潮し、気恥ずかしさを隠す為にそっぽを向く。

 「私の周りにはそういった恋愛沙汰を相談できる人が居なくてね。アイン様は自分の事を様付けするなと言っていたけど、私としてはこう言った方が自然なの。だけどそれだと距離があるように感じてしまうし、彼の為に何かしようとしても裏があると思われてしまう。どうしたらいいと思う?」

 呆気に取られるとはこのことだろう。彼女から溢れ出した殺意は照れや気恥ずかしさを隠す為のものであり、死を与える為に流れ出たものではない事にムルスは喉に詰まった息を吐く。

 「……私はそういった恋愛事について何も助言出来ません。イエレザ様、貴女は」

 「そのアインという方が好きなのですね?」

 ジュナを床に寝かせたセナがイエレザの対面に座り「戦いばかりに目を向けている人は大変ですよ? イエレザ様」と少女の心を理解した風で頷いた。
 
 「殿方は何時も戦いに目を向けて剣を握る。それは貴女の旦那様も同じでしょう?  それとはまた別の問題……アイン様の心に居る別の少女に私はどうしても勝つ事が出来ないの」

 「別の少女?」

 「ええ。……サレナ、あの子がアイン様を変え、私を変えた。私と同等の力を持ちながらも、自分の無力さに嘆き、それでも共に歩もうとした少女がアイン様の心にピッタリと張り付いている……。横恋慕は卑劣なのは承知の上だけど、私はアイン様を手に入れたい。その心は間違っているかしら?」

 アインの中……心にはサレナと云う絶対的な象徴が存在し、彼女が居たからこそ彼は人らしい生を望み、剣を振っていた。

 サレナがアインへ人としての生を与えようとしていたならば、己に何が出来る。彼の剣士に物資を与えるのは簡単だ。しかし、心に何か与えなければ精神という器を満たすことは出来ないだろう。

 「……私からイエレザ様へ与えられる助言はさして興味深いものではないのかもしれません。ですが、貴女様の心が本物であるとしたら、共に求めるものを探し、見つけ出すのが一番かと思います」

 「……」

 「昔、まだ私とムルスが一緒になる前……ジュナとメアリーも生まれていなかった頃、彼は魔血症の治療方法を探し求めいました。イエレザ様は魔血症についてご存じですよね?」

 「ええ、知っているわ。貴女が魔血症であることも小瓶薬を見て予想がついていたもの。でも、魔血症の治療方法は存在しないでしょう?」

 「はい。私の身体を冒す病は進行を遅らせることが出来ても、治すことは出来ません。それでもムルスは……夫は治療方法を探すことを諦めませんでした」

 戦場へ赴き、金を稼いでは治療薬を買い集め、高名な術師に診て貰う日々。絶望がムルスの心をささくれ立たせ、忍び寄るセナの死を嫌が応にも認めさせようとした。

 「……ある日、私はムルスに言いました。もう無理をしないで欲しい。私の為に血を流さないで欲しいと」

 「死を受け入れたの?」

 「いいえ。ただ……そうですね、人並みの幸せが欲しかった。家族が居て、子供が居て、何でもない日常を送る日々が欲しかった。それをムルスに話して、一緒になったんですよ」

 何気ない日常を送り、命が消える最期の日まで愛する人と過ごしたい。たったそれだけの為に、軍を辞めて此処に居る。

 ムルスへ視線を向けたセナは儚げな笑顔を浮かべ、イエレザに向き合い「自分のしたいこと、相手の為にと思ったこと、それを正直に話してみたらどうですか? 計略や打算を抜きして」と微笑んだ。
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