成す為に ②

文字数 2,237文字

 熊を殺し、血塗れの状態で割れた窓ガラスを乗り越えたアインにイエレザが微笑みかける。

 「如何でしたか? 貴男が対峙せねばならぬ相手に触れた気分は」

 「……最悪だ」

 「最悪と云ってもアレはまだ小手調べ。時が来れば更に困難な状況に陥りましょう。故に、策を打たねばならないのです。思ったよりも時間がありませんね。ミーシャ、今直ぐに町を囲む外壁に伝播杭を打ち込みに行きなさい」

 「分かりましたぁ。アインさんとイエレザ様はどうするんですか?」

 「やるべきことをするだけです」

 抉られ、罅割れたアインのアーマーに触れたイエレザは術を唱え、口の端から鋭い牙を覗かせる。

 「アイン、私が貴男に授けた鎧はノスラトゥに遠く及ばない代物です。傷を与えられたら鋼が欠けて、傷を癒す度に狂死してしまう程の激痛を貴男に与えてしまう。あの黒鉄の戦闘甲冑は異端中の異端。使用者の感情を喰らい、無尽蔵の魔力を生み出し続ける魍魎の棺は今のボディアーマーと比べたら神秘の塊でもあります」

 「……」

 「甲冑の形を模した棺に巣食うは幾百万の死霊達。死霊は貴男に力を与え、死地へ赴かせては戦いを強要するでしょう。そのアーマーも同じなのです。黒鉄の下に刻まれた刻印が私の領域から影を引っ張り出し、影の持つ魂が貴男の傷を激痛を以て癒す。何度貴男が倒れようと、血を吹き出そうと、鎧に潜む影は貴男が生きているかぎり戦いを迫るのです。アイン……貴男が必要無いのなら、今直ぐにでもその鎧を」

 「断る」

 「……」

 「必要だから纏うんだ。イエレザ、俺はお前に感謝している」

 少女の両肩を握り締め、真紅の瞳に激情を焚べたアインが頭を下げ。

 「守らなければならないもの、戦わなければならない理由、剣を振るう意味……死んでいたら何も成し得なかった。戦う力がなければ自分で言ったことすら守れなかった。だから……俺にこの鎧をくれたお前に感謝している。迷惑を掛けるな、イエレザ」

 「……怒らないのですね、欠点の無い武具を授けなかったことに」

 「怒る必要性を感じられない。確かにノスラトゥと比べれば魔力の供給も無いし、敵を焼き殺す炎も出せやしない。だが、それでも、戦える。俺が……俺自身の為に、誰かの為に戦えることに意味を見出せるなら、手段をくれたお前を怒る必要が無い。見ていろイエレザ、お前が力を貸した者がどれだけ戦えるかを。どこまで歩んで行けるかを。……見ていてくれ」

 彼の全身を覆う鮮血が影に取り込まれ、綺麗さっぱり消え果てる。先程の死闘がまるで存在しなかったかのような、完全な状態に復元されたアーマーの胸を叩いたアインは未だ血に濡れる灰の剣を背負う。

 「ミーシャ」

 「……何ですかぁ? アインさん」

 「手伝おう。伝播杭とやらを貸してくれ」

 「必要ありませんよぉ。設置方法と起動確認は私の方が慣れているのでぇ」

 「そうか、ならお前に任せる。そうだな……俺は」

 敵の情報を聞こう。そう言ったアインの言葉には尋常ならざる殺意が含まれ、濁流が如く押し寄せる闘志が含まれていた。
 
 「イエレザ、あの熊が小手調べなら本体はもっと破滅的な力を持っているのだろう? 教えてくれ」

 「……一つ、私が話した対抗手段の一つを覚えていますか?」

 「ああ。罪と向き合い、自我を守れだったな。俺が垣間見た映像……記憶の断片が罪の証拠だとしたら、自我を守る為に取れる手段は存在しなかった。……いや、一つだけ、あるにはあるのか」

 殺意と衝動が本能の持つ罪悪だとするならば、人が持つ意思と思考は自我を守る鎧。精神を守る為に人は自我という鎧を纏い、本能という剣を握る。理性と狂気の狭間にその身を置くことは、罪と自我が入り乱れた混濁する色を纏うこと。

 「そうです。森へ足を踏み入れ、深奥へ向かうという事は大熊の領域に敷かれた理に真っ向から歯向かうこと。アイン、如何に貴男が優れた戦士であろうとも精神を丸裸にした状態では大熊に成す術無く蹂躙され、腸を貪られてしまう。故に」

 イエレザの牙が彼女自身の下唇を噛み切り、言いたくも無い言葉を押し止める。

 この言葉を口に出して仕舞えば、完全に彼の

は己の心の在処を理解してしまう。それは事実上イエレザの敗北宣言であり、アインを我が物にしたいとする心を己が認めてしまうから。

 「……」

 「イエレザ?」

 「……貴男の希望を、心の在処を、貴男自身の心を守る鎧にすべきでしょう」

 言ってしまった。話したくも無い言葉を己の口から吐き出し、粉々に打ち砕いてしまおうとした言葉を彼の為に話したイエレザは強烈な殺戮衝動に襲われる。

 手に入れられないのなら、その心を満たすことが出来ないのなら、全て……目の前にある何もかもを壊してしまいたい。薄っぺらい善の仮面を引き剥がし、己が築いた信頼も信用も影に飲み込んでしまいたい。

 イエレザの足元から伸びる影が水飛沫のように弾け、地表を蠢く木の根のように騒めいた。少女の淡い恋心が破綻し、アインを一生手に入れることが出来ない絶望が破壊衝動を体現するが如く暴れ狂いだそうとする。

 「そうか、分かった。ならそうだな……俺は俺として、俺だけの記憶を以て戦わねばならないのだろう」

 「……え?」

 「俺が歩んで来た道程、戦いの記憶、誰かとの記憶……。何も無かった俺が、全てを失っていた俺が、再び人らしく歩み出せたのは確かにサレナのおかげだ。それは間違い無い。だが、その他にも俺自身が今まで気づかなかった支えがあったんだ」

 
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