営み ②
文字数 2,350文字
頭に羊のような角を持つ男が一振りの剣を持つ。
剣の鞘は酷く汚れ、赤黒い血の跡が幾つも付着していた。多くの人類の血を啜り、獣の肉を断った剣は男に残された最後の武器であり、戦いの記憶そのものだった。
鞘から剣を抜き、ぬらりと鈍い輝きを見せる刃を見る。鋭く研がれた鋼の光沢に男の厳つい顔が映り、覚悟を決めた戦士の表情に男は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
戦いから暫く遠ざかっていた故に、剣を上手く扱える自信が無かった。最後に剣を振るって人類を殺したのは五年以上前の事。血生臭い戦場で敵を殺し、百人斬りの妖剣と呼ばれ恐れられた男は今や森で獣を狩り、ウルトの町で狩人を営む者と成り果てた。
「ムルス……何処へ行こうとしているの?」
剣を見つめる男に草臥れた蝙蝠の羽を背から生やす女が声を掛ける。
「……メアリーとジュナ、子供達が森へ向かった。安心しろ、連れ戻すだけだ」
「……森には、あの大熊が、化け物が居るわ。イエレザ様の兵と戦士が来る迄待っていた方が」
「そいつらは何時来るんだ? 子供二人が森へ行ったくらいで彼女の私兵が動く筈が無い」
「だけど」
「セナ、事は一刻を争うんだ。ぐずぐずしていればあの子達が危ない」
剣を腰に差した男……ムルスは妻のセナの横を通り過ぎて玄関の扉を開ける。
「……貴男は」
「……」
「まだあの戦場を忘れることが出来ないの?」
セナの言葉に足を止め、押し黙る。
「もう戦う必要が無いって、剣を振らないって言ったじゃない……。家族の為に生きるってそう約束したでしょう? ムルス、私は」
「時間が無い」
彼女の言葉は男に届かない。戦う必要が無い時には確かに剣を振る必要が無い。ムルスは自分達の子供を助ける為に剣を振るおうとしていた。だが、心の何処かでは戦いを欲していたのだ。抑圧された闘志を、生死を分かつ戦いを。
「行ってくる」
家の外へ歩み出したムルスの腰に町の子供がぶつかり、素早く立ち上がると広場へ向かっていく様子が見て取れた。
広場で何かあるのだろうか? 視線が自然に子供の後を追い、広場で民と戯れる少女の姿を見たムルスは大きく目を見開き、息を呑む。
黒い艶やかな腰まで届く髪と黒曜石を思わせる真っ黒い瞳。ドレスの肩口から覗く白磁のような肌は傷一つ無い彫像のようで、陽光に煌めいているようにも錯覚してしまう妖艶な美しさを醸し出す。
彼女のことは知っている。いや、知らない方が可笑しいだろう。一般的な魔族と文字通り格が違う存在、ここ等一帯を治める領主……上級魔族イエレザ。彼女が放つ圧倒的な魔力と力に気圧されたムルスは棒のようにその場に立ち止まる。
何故彼女が此処に居る。今日は来訪日ではない筈だ。何時も己の屋敷に籠り、自分から用がある日以外一歩たりとも外へ出ない彼女がどうして此処に居る。
イエレザの力に気圧され、足を進めることが出来なかったムルスの服をセナが引っ張り「イエレザ様に頼みましょう? メアリーとジュナのことを」と小さな声で囁く。
「イエレザ様に直接陳情してみましょう? そしたら兵を出してくれるかも」
「だが」
「もう……貴男が傷つくのが嫌なの。だから、お願いムルス。イエレザ様に相談しましょうよ。森に行った子供達のことを」
「……」
分かった。そう呟き、人の波を掻き分けてイエレザの前に立ったムルスは膝を着き、頭を垂れる。
「あら、貴男は確か」
「ムルスと申します。自分勝手ながらイエレザ様に頼みがあります」
「あのぉ、この人剣を持ってますよぉ? イエレザ様、危ないですよぉ?」
剣を抜く気など毛頭無い。しかし、イエレザの従者であるミーシャはそんなことお構いなしにメイスを振り上げる。
「ミーシャ、少し待ちなさいな。頼み事? 言ってみなさいムルス」
「……貴女様の屋敷に続く森に私の子が迷い込んでしまいました。子等を助ける為に兵と戦士を貸して頂きたいのです」
周囲が騒めき、ムルスに視線が集まる。
「森に? あそこは私の兵と戦士、貴男のような大人以外侵入禁止の筈だけど」
「……私の監督不届きです。罰を与えるならば私だけにして頂きたい。妻と子等にはどうか恩情を」
「ムルス」
「……」
「私兵を貸し出すことは出来ないわ」
「……ッ」
「だって、貸す必要が無いもの」
「それは、どういう意味でしょう」
「彼が居るから」
「彼、とは?」
「上手くいけばあと少しで来る筈だけれど……。嗚呼、噂をすれば、ね」
スッと、イエレザの細い指が町の門を指し示す。彼女とムルスを取り囲む民の目が一斉に門の方へ向かれ、男もまた目を向ける。
「森の化け物にそろそろ痺れを切らしている頃だと思ってね」
低い地響きと馬蹄が地を踏む音が段々と近づき。
「私も手を打とうと思っていたところよ。私兵を出せば必ず死傷者が出るし、領民の安全を担保に打って出ることも出来ない。私が行けば話が簡単に事が済むのだけれど、それじゃ貴方達の成長も期待できないでしょう?」
馬の嘶きと子供の声。門を蹴破ったゲブラーはイエレザ目掛け一直線に突き進み、馬上で手綱を握る少年が剣を片手に巧みな腕前で黒馬の足を止め。
「とんだじゃじゃ馬を寄越したものだなイエレザ」
真紅の瞳を以てイエレザを見下ろした。
「アイン、意外と早く到着しましたのね。ところで、貴男に捕まる少女と剣に吊るされている少年は何処で拾いましたの?」
「森の途中で拾った。獣に襲われていたところを助けただけだが、術師と医師はいるか? 餓鬼……メアリーの足を診て貰いたいんだが」
「……メアリー?」
アインの首に捕まり、顔を真っ赤にしている少女は確かにムルスの娘であるメアリーで、剣に吊るされている少年もまた彼の息子であるジュナの姿だった。
剣の鞘は酷く汚れ、赤黒い血の跡が幾つも付着していた。多くの人類の血を啜り、獣の肉を断った剣は男に残された最後の武器であり、戦いの記憶そのものだった。
鞘から剣を抜き、ぬらりと鈍い輝きを見せる刃を見る。鋭く研がれた鋼の光沢に男の厳つい顔が映り、覚悟を決めた戦士の表情に男は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
戦いから暫く遠ざかっていた故に、剣を上手く扱える自信が無かった。最後に剣を振るって人類を殺したのは五年以上前の事。血生臭い戦場で敵を殺し、百人斬りの妖剣と呼ばれ恐れられた男は今や森で獣を狩り、ウルトの町で狩人を営む者と成り果てた。
「ムルス……何処へ行こうとしているの?」
剣を見つめる男に草臥れた蝙蝠の羽を背から生やす女が声を掛ける。
「……メアリーとジュナ、子供達が森へ向かった。安心しろ、連れ戻すだけだ」
「……森には、あの大熊が、化け物が居るわ。イエレザ様の兵と戦士が来る迄待っていた方が」
「そいつらは何時来るんだ? 子供二人が森へ行ったくらいで彼女の私兵が動く筈が無い」
「だけど」
「セナ、事は一刻を争うんだ。ぐずぐずしていればあの子達が危ない」
剣を腰に差した男……ムルスは妻のセナの横を通り過ぎて玄関の扉を開ける。
「……貴男は」
「……」
「まだあの戦場を忘れることが出来ないの?」
セナの言葉に足を止め、押し黙る。
「もう戦う必要が無いって、剣を振らないって言ったじゃない……。家族の為に生きるってそう約束したでしょう? ムルス、私は」
「時間が無い」
彼女の言葉は男に届かない。戦う必要が無い時には確かに剣を振る必要が無い。ムルスは自分達の子供を助ける為に剣を振るおうとしていた。だが、心の何処かでは戦いを欲していたのだ。抑圧された闘志を、生死を分かつ戦いを。
「行ってくる」
家の外へ歩み出したムルスの腰に町の子供がぶつかり、素早く立ち上がると広場へ向かっていく様子が見て取れた。
広場で何かあるのだろうか? 視線が自然に子供の後を追い、広場で民と戯れる少女の姿を見たムルスは大きく目を見開き、息を呑む。
黒い艶やかな腰まで届く髪と黒曜石を思わせる真っ黒い瞳。ドレスの肩口から覗く白磁のような肌は傷一つ無い彫像のようで、陽光に煌めいているようにも錯覚してしまう妖艶な美しさを醸し出す。
彼女のことは知っている。いや、知らない方が可笑しいだろう。一般的な魔族と文字通り格が違う存在、ここ等一帯を治める領主……上級魔族イエレザ。彼女が放つ圧倒的な魔力と力に気圧されたムルスは棒のようにその場に立ち止まる。
何故彼女が此処に居る。今日は来訪日ではない筈だ。何時も己の屋敷に籠り、自分から用がある日以外一歩たりとも外へ出ない彼女がどうして此処に居る。
イエレザの力に気圧され、足を進めることが出来なかったムルスの服をセナが引っ張り「イエレザ様に頼みましょう? メアリーとジュナのことを」と小さな声で囁く。
「イエレザ様に直接陳情してみましょう? そしたら兵を出してくれるかも」
「だが」
「もう……貴男が傷つくのが嫌なの。だから、お願いムルス。イエレザ様に相談しましょうよ。森に行った子供達のことを」
「……」
分かった。そう呟き、人の波を掻き分けてイエレザの前に立ったムルスは膝を着き、頭を垂れる。
「あら、貴男は確か」
「ムルスと申します。自分勝手ながらイエレザ様に頼みがあります」
「あのぉ、この人剣を持ってますよぉ? イエレザ様、危ないですよぉ?」
剣を抜く気など毛頭無い。しかし、イエレザの従者であるミーシャはそんなことお構いなしにメイスを振り上げる。
「ミーシャ、少し待ちなさいな。頼み事? 言ってみなさいムルス」
「……貴女様の屋敷に続く森に私の子が迷い込んでしまいました。子等を助ける為に兵と戦士を貸して頂きたいのです」
周囲が騒めき、ムルスに視線が集まる。
「森に? あそこは私の兵と戦士、貴男のような大人以外侵入禁止の筈だけど」
「……私の監督不届きです。罰を与えるならば私だけにして頂きたい。妻と子等にはどうか恩情を」
「ムルス」
「……」
「私兵を貸し出すことは出来ないわ」
「……ッ」
「だって、貸す必要が無いもの」
「それは、どういう意味でしょう」
「彼が居るから」
「彼、とは?」
「上手くいけばあと少しで来る筈だけれど……。嗚呼、噂をすれば、ね」
スッと、イエレザの細い指が町の門を指し示す。彼女とムルスを取り囲む民の目が一斉に門の方へ向かれ、男もまた目を向ける。
「森の化け物にそろそろ痺れを切らしている頃だと思ってね」
低い地響きと馬蹄が地を踏む音が段々と近づき。
「私も手を打とうと思っていたところよ。私兵を出せば必ず死傷者が出るし、領民の安全を担保に打って出ることも出来ない。私が行けば話が簡単に事が済むのだけれど、それじゃ貴方達の成長も期待できないでしょう?」
馬の嘶きと子供の声。門を蹴破ったゲブラーはイエレザ目掛け一直線に突き進み、馬上で手綱を握る少年が剣を片手に巧みな腕前で黒馬の足を止め。
「とんだじゃじゃ馬を寄越したものだなイエレザ」
真紅の瞳を以てイエレザを見下ろした。
「アイン、意外と早く到着しましたのね。ところで、貴男に捕まる少女と剣に吊るされている少年は何処で拾いましたの?」
「森の途中で拾った。獣に襲われていたところを助けただけだが、術師と医師はいるか? 餓鬼……メアリーの足を診て貰いたいんだが」
「……メアリー?」
アインの首に捕まり、顔を真っ赤にしている少女は確かにムルスの娘であるメアリーで、剣に吊るされている少年もまた彼の息子であるジュナの姿だった。