混沌の樹脂 ①

文字数 2,285文字

 指先がピクリと動き、木の根に覆われた剣士が息を吹き返したかのように大きく息を吐き出した。

 脳に響く激痛と胸を貫く刃の冷気。真紅の瞳に激情を宿したアインは全身のバネを利用して木の根を振り払い、胸に突き刺さった灰の剣を引き抜く。

 「……」

 夢を見ていたような気がする。罪悪と向き合う悪夢を見せつけられ、心を圧し折られそうになった悪夢を見た。

 「……もう、大丈夫だ」

 独り言のように呟き、剣を振るったアインは周囲に漂う赤い霧に含まれる魔力を断ち、行くべき道を見据える。

 「ゲブラー」

 アインの声に応えるように黒馬が馬蹄を踏み締め嘶いた。彼と同じ色の瞳を持つゲブラーは呆れたように、剣士の不甲斐なさを鼻で笑うと己の背に乗れと首を振るう。

 「俺の胸に剣を刺したのはお前か?」

 当たり前だろう? 突然気が狂ったように喚き出し、剣を持ったまま己の鞍から転げ落ちた阿呆を刺して何が悪い。人と云うのは些か精神的な苦痛に己を見失う弱さがある。

 「……何を思っているのか分からんが、助かった。礼を言う」

 そんな事どうでもいい。早く乗れ。牙を剥き、出血を筋肉の膨張で止血したゲブラーは自分達に向けられる殺意を感じ取り、アインに戦闘態勢を整えるよう促す。

 ゲブラーの背に飛び乗ったアインは静まり返った荒野を見回し、身に突き刺さるような殺意の出処を探る。鈍器のように深く抉るような、大剣の刃を連想させる強烈な殺意は荒野の向こう側……形骸化された中身の無い森の中から発せられていた。

 敵の所在を掴めたなら後は斬るだけだ。手綱を引き、襲い掛かる木の根を叩き斬りながら駆けたアインとゲブラーに空気を震わせる程の咆哮が放たれる。

 森の化け物……大熊の咆哮だ。向かって来る敵意に対し拒絶の意を示す大熊は乾いた骨肉の枝葉を操り、黒馬の行く手を阻むが剣士の剣によって悉く叩き折られ、徐々に距離を詰められる。

 「……」

 粉砕される枝葉に魔力が通っているとは思えない。人と動物の骨肉で作られている枝葉は、ただ単に死骸を再利用した出来の悪い造形物程の脅威にしか感じられない。これならば視界を遮る赤い霧の方が、罪悪と向き合わざるを得なくなる浸食の方がよっぽど恐ろしい。

 砕けた枝葉を振り払い、形だけ再現した森に脚を踏み入れたゲブラーの蹄が若草を踏み締め、アインの鼻孔が青々とした緑の香りを嗅ぎ取った。戦場を模した荒野とは裏腹に、森は野生動物が理想とする環境が整えられていた。

 「……」

 違和感が加速する。戦いを求めるだけならば、こんな美しい景色など必要無い。戦場のままでいい筈なのに、何故形だけの森が存在している。

 まさか……。剣士の仮面を木の根が掠め、迫り来る枝を木っ端微塵に粉砕したアインは森の奥地で蠢く巨大な影を見る。

 異形……その言葉が相応しい。体長五メートルを超える熊が腹ばいにして地べたに這い、身体中から飛び出た枝葉が幹を形成して連なる様は生物の死骸を苗床に伸びる大樹を連想とさせた。

 生きているのか死んでいるのか分からない。息も絶え絶えでありながらも貪欲な殺意を身に滾らせ、白濁色の瞳から洩れる憎悪は尋常ならざる死を宿す。

 ゲブラーが吠え狂い、角の間に雷の玉を作りだす。細い紫電が空を斬り裂き、超圧縮された魔力の雷を放出しようとした黒馬を制止したアインは真紅の瞳に大熊を映した。

 「……」

 これが森の化け物の正体なのか? この老いて死に瀕する大熊が? 

 この熊を殺せばメアリー一家の命は助かるだろう。自死を選び取ることも出来ず、ただ命を繋いでいるだけの哀れな獣を殺せば全てが終わる。だが、本当にそれでいいのだろうか? ただ一思いに殺してやることが正解なのだろうか? 

 「……いや、違う」

 灰の剣が黒白の光を発すると刀身に白銀を、刃に漆黒を宿す。

 見誤るな、よく見てみろ、双眼に敵だけを映すんじゃない。真に殺すべき存在は他に居る。熊を苗床にして伸びる大樹から粘つく液体が垂れ落ち、蒸気を発しながら獣の毛を焼くと苦痛を糧に呪いを生む。

 「ゲブラー!!」

 一声、アインの叫びに反応したゲブラーが咄嗟にその場から飛び退き、草を飲み込みながら這い寄る液体と距離を取る。

 森が騒めき、緑の一部が枯れてゆく。一枚、また一枚と青々とした葉が枯草色に変色し、命そのものを吸われているようにも見えた。

 苦痛が混じった咆哮と、殺意や憎悪を糧として猛威を振るう混沌の大樹。
 
 大熊の痛みが、魔力が、絶望が、更なる液体……混沌の樹脂を滴らせ、緑を枯死させる。

 斬るべき敵が見えた。アインの意思を汲み取ったゲブラーは見事な足捌きで混沌の樹脂を躱し、大熊との距離を詰める。

 呪いを生み出す根源は大樹と見て間違いないだろう。あの樹を斬り倒し、大熊の苦痛を取り除けばまた違う意思が見えてくる筈だ。剣を構え、黒白の絶剣を振るったアインはゆらゆらと揺れる幹の一部を斬り飛ばし、束となって連なる骨肉の枝を睨む。

 「ッツ!!」

 沸騰する樹脂が刃に纏わり付き、黒白の絶剣を成す魔力を喰らおうと軟体生物のように這い蠢く。一瞬驚愕の色を露わにしたアインだったが、樹脂を振り払うと剣を蝕もうとする呪いを殺し、霞へ変える。

 樹脂が喰らうモノに有機物や無機物と云った概念は関係ない。魔力を宿し、命あるモノならば何もかも喰らおうとする貪欲なる呪詛の塊。それが大樹の中を駆け巡る樹脂の正体だ。

 「……俺とお前なら奴に勝てる。そうだろう? ゲブラー」

 当たり前だ。何を下らんことを聞く。鋭い牙を剥き出しにした黒馬は再び地面を蹴り上げ、アインと共に大樹へ突っ込んだ。
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