不変奈落 ③

文字数 2,650文字

 指先が乾き、唇が罅割れていた。

 一切の手当てが施されなかった傷口は化膿し、膿と赤黒い血が溜まっていた。牢の中は一か所に排泄された糞尿の悪臭に塗れ、常人であれば嫌悪感を露わにして近寄ろうともしない。その牢の中、食事と水、両方を与えられていないメイリアルは強烈な飢えと渇きに襲われていた。

 今の己はどういった姿をしているのだろう……。痛みと渇き、膿んだ傷口が痒みを訴え、指で掻こうとしても指先が上手く動かない。

 這い寄る絶望が彼女に残っていた希望を闇に染め、生きる意欲さえも奪い尽くす。衰弱した肉体と精神は見え透いた死を抱擁し、生への渇望を手放そうとする。三日間……牢の天窓から雨の湿った臭いが流れ込んだ瞬間、重い鉄格子が開かれた。

 「家畜の小屋より酷い状態だな……出ろ、裏切り者。お前の処遇が決まった」

 「……」

 「今日は雷雨になるらしい。同族殺しの制約がある以上、お前には雷刑が科されるらしい。その前に、身体が持つかどうかだがな」

 少女の髪を鷲掴みにした男は彼女の身体を引き摺り、牢の外へ出る。

 「誰も、だぁれもお前に興味なんて無い。皆自分の身が可愛いから、無罪のお前を助けようともしない。見ろ、避雷針が括りつけられた処刑台を見物に来た村人は何人いる? 居ないだろう?」

 「……」

 「何の為に産まれ、何の為に生きてきたんだろうな。死ぬために産まれたのか? 罪を着せられる為に生きてきたのか? どっちみち、お前は処刑される運命にあるのだろう」

 メイリアルを縄で縛り、金属製の鉄杭に括った男は雨に濡れる少女を見下ろし、深い溜息を吐く。その溜息は無実の少女を殺す役目を負った為か、変わらない村社会への嫌悪感からか。村長の指示に従い、灰色の空を見上げた男は森が紺碧に染まる様子を視界に映す。

 「何だ、アレは?」

 一直線に、だが広範囲を紺碧に濡らす水晶は異常な速さで村に迫っており、その存在自体が敵である魔族のものだと男の魂が理解した。理解した刹那、男は獰猛な殺意と憎悪を滾らせ、大声で村に響き渡るよう叫ぶ。魔族が来たと。

 「魔族だ!! 敵だ!! 武器を持て!! 殺せ」

 「邪魔だ、人類」

 一閃。破滅的な魔力を宿らせた矛の一撃が男の頭部を粉砕し、肉体を水晶へ変える。藍色の瞳を輝かせ、憎悪と憤怒を闘志へ変換した上級魔族……ズィルクはメイリアルを縛る縄を断ち斬ると強く抱き締める。

 「遅くなった。すまない、メイリアル」

 「……約束」

 「……」

 「約束、守って、くれたんだ」

 「当たり前だ……言っただろう? 必ず迎えに来ると。その為に私は戦線を此処まで引き延ばしてきたのだ。……今は喋るな。少しだけ、眠っていろ」

 メイリアルの冷たい身体を抱き締め続けたズィルクは殺意を以て武器を持つ村人達を睨み、魔槍ディーグレスを握る。

 「貴様等、自分達が何をしたのか理解しているのか? 人類の木っ端が私に武器を向けるなど無意味だ。いや、貴様等の存在そのものが無価値である」

 愛する少女を虐待し、迫害した村人に慈悲は無し。彼の周囲に形成された水晶が液体となって村全体を覆い尽くすと再び結晶へ変質する。

 「彼女の母は貴様等に罪を被せられ、苦痛と苦難の中で命を散らした。罪を捏造し、在る筈の無い罰をメイリアルに科そうとしたのか? 許さない、理解出来ない、認めない……。一人の命を、私が愛した者の命を奪おうとし、見て見ぬフリをした者達は皆罪人だ。故に、貴様等は死に続け、生き続けろ。我が秘儀の中で、永劫奈落に苦しみ続けるがいい」

 人魔闘争の中で人類と魔族が争い続ける……それが世界に敷かれた制約による枷であるのならば仕方ないと割り切ろう。強者が弱者を貪り喰らい、弱肉強食の生存競争が百年以上続く世であっても、

納得しよう。それが自分達の世界なのだから。

 だが、許せない。認めない。我慢ならない。愛する少女が虐げられ、同胞である筈の人類に犯してもいない罪を着せられ裁かれるなど、命を落としかけてしまうなど、許容出来ない。村を人諸共水晶で包み込み、結晶化させたズィルクは己が瞳に憎悪と憤怒を滾らせ、秘儀を展開する。全てを彼が信ずる不変へ取り込むのだ。

 「

。貴様等は変わらないのだろう? 自分達が形成した社会でのみ生き、犠牲を積み重ねて生きて来たのだ。ならば、今度は貴様等が命を奉ずる番だ。深く、蒼い、紺碧の海に沈め。そして、その命と意思が潰える瞬間までメイリアルに奉仕しろ。これは罰ではない、贖罪だ。拒否権が存在すると思うなよ? 人類」

 爆発的な魔力が彼の魔族より溢れ、不変の意思と誓約が力となって巨大な水晶の領域を創り出す。不変の円環に縛られた魂は鑢で少しずつ、確実に意思と魔力を削り取られ、彼の領域を維持する為の糧となる。喜びと楽しみを奪われ、怒りと憎しみだけを残された魂はやがて正気を失い肉体諸共腐り落ち、思考無き死生者へと成り果てるのだ。

 水晶結晶・不変奈落。上級魔族ズィルクの秘儀にして、大規模広範囲の領域を展開する術は変化を否定する。肉体、精神、環境……水晶に覆われ、結晶化した生命や無機物はその瞬間の感情と記憶を保持したまま、不変に囚われ生き続け、死に続ける。敵と見做され、彼の憎悪と憤怒を浴びた村人達は恐怖と敵意を抱いたまま、ズィルクが展開した秘儀の中で死よりも辛い責め苦を受け続ける。

 「……メイリアル、お前に謝らなければならないことがある」

 「……」

 「勝手に、日記を見てしまった。私は、真っ直ぐに、本当の気持ちを伝えればよかった。……愛している。メイリアル、私はお前が好きなんだ。ずっと、ずっと私の傍に居て欲しい。私に、お前の言葉と笑顔を向けて欲しい。だから、頼む、死なないでくれ……。私を、一人にしないでくれ……」

 彼の涙を拭ってあげたいのに、両腕に力が入らない。彼の愛に言葉を送りたいのに、唇が動かない。彼の顔を見ていたいのに、瞼が重くなる。愛しい人、優しい人、初恋を捧げた人……。冷たい雨が身体を濡らし、徐々に失われてゆく体温から死を感じ取った少女は最期に柔らかな微笑みを浮かべた。

 「メイリアル……? メイリアル!! 死ぬな!! 死ぬんじゃない!! メイリアル!!」

 力が完全に抜けた少女の遺体を抱いた魔族は雷雨の中慟哭し、涙を流す。

 そして、彼は決意した。これから歩む道が外法であろうと、悪鬼の道であろうと恐れず往くこと。少女の命を取り戻すことを、誓ったのだ。
 
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