薄氷 ③

文字数 2,580文字

 一日の業務を終える鐘が鳴り、工場で稼働する機械の群れが唸りを止める。

 汗と油が染みついた作業服を着る工場作業員がふらめきながら更衣室へ向かい、ぼんやりとした意識のまま給金替わりの配給券を傭兵から手渡される。

 体力を使う地下炭鉱で働く者も、立ち仕事で部品を組み立てる者も、一切のミスも許されない手作業に勤しむ者も皆同じ配給券を貰い、屑野菜と獣肉の切れ端が入った味の薄いシチュ―を喰う。子供も大人も変わらない食事では腹を満たすことも叶わず、町に住む者は日に日に瘦せ衰えていく。

 「……」

 水のようなシチューを見つめたダノフは貴重な食料に手を付けず、横で物欲しそうな目をしていた少年に分け与える。少年の母と思わしき女は老人に何度も礼の言葉を述べたが、彼は何も聞こえていないかのように椅子から立ち上がり、工場の外へ向かう。

 月の出る良い夜だった。雲一つ無い綺麗に澄んだ星の夜。一年を通して寒気に晒される町は異常な程に空気が透き通っており、こうして雪が降らない夜はよく空を見上げたものだ。白い息を吐き出し、隠し持っていた煙草に火を点けたダノフは紫煙を燻らせ赤い火種を見つめた。

 最後の一本だ。これを吸い終わり、踏み出せば全てが変わる。己は二度目の裏切りを成し、持てる全ての物をあの御方……上級魔族イエレザに差し出そう。この命を捧げ、投げ出そう。長くなる灰を指先で叩き落とし、口一杯に広がる苦味を噛み締めたダノフは懐に忍ばせていた豪華な装飾が施された短剣を握る。

 「こんばんはぁ。あのぉ、貴男がダノフさんですかぁ?」

 「……貴女は、君は、イエレザ様と一緒に居た」

 「ミーシャって言いますぅ。えっとぉ、イエレザ様からの命令で貴男を保護しに来ましたぁ。あ、先に聞いておきますけどぉ、例の物は持ってきましたかぁ?」

 「此処に」

 短剣を差し出し、鍵の束と一枚の書類をミーシャに手渡したダノフは周囲を警戒するように視線を巡らせる。

 もしこの場面を、この取引を傭兵連中に見られたりでもしたら町の人々が危険に曝される。出来る限り自然に、息を潜めて抜け出して来たが勘の良い者が居たならばダノフの不在に気付き、探し回るに違いない。そうなったが最後……衝突は免れない。


 「ミーシャ殿……イエレザ様は何時行動を起こすおつもりで?」

 「さぁ? あの人の思考は私も読めませんからねぇ……。今日かもしれないし、明日なのかもしれない。まぁ、気長に待っていればいいんじゃないんですかねぇ」

 どうでもいいような、自分には関係ないと言った風でダノフから鍵と書類、短剣を奪い取ったミーシャは面倒そうに欠伸をする。

 「……私は貴女方に全てを捧げるつもりです。命も、時間も、意思をも差し上げる思いでこの場に立っています。ミーシャ殿、少しでいい。イエレザ様のお考えを」

 「知らないですよぉ。あぁ面倒臭い。さっさと行きますよ、貴男も部外者と話しているところを見られたら厄介でしょ? さぁ早く」

 黒の軽鎧から鋼の音を響かせ、夜道を歩き出したミーシャを追うように老人も後に続く。

 何処か掴み所の無い少女だった。目に僅かな疲労を浮かべ、時折頭を押さえては鈍重な殺意を纏う少女。建物の影から影に身を忍ばせ、町を巡回する傭兵を数えるミーシャは思い出したかのようにメモ帳を取り出し、大雑把な地図を記すと何らかの記号を書き加える。

 「ミーシャ殿、それは?」

 「貴男には関係のないことですぅ。教えても意味がありませんからねぇ」

 「……もしかして、エルストレスが雇った傭兵の数と巡回ルートを調べているのですか?」

 「そうだとしたら?」

 「……手帳と筆を貸して下さい。私が記します」

 「貴男を信用するとでもぉ? 馬鹿言わないで下さいよぉ」

 「……」

 町の地図なら頭の中に入っている。傭兵の数と巡回ルートも全て記憶している。どうにかして少女の信頼を勝ち取り、少しでも力を貸したいと思い悩むダノフの耳に女の悲鳴が聞こえた。

 「……」
 
 通りで女が服を引き裂かれ、子の前で押し倒されていた。下卑た笑みを浮かべる傭兵が数人掛かりで手足を押さえ、股を開かせ欲望に身を焦がしていた。

 町ではよくある光景だ。工場から帰る女を犯し、玩具感覚で弄ぶ傭兵の蛮行は止まる事を知らず、止めに入った町の男を叩きのめし骨を砕く。

 足が震え、唇が渇いていた。容赦ない暴力が町の若者を襲い、例の場所へ連れ去って往く光景が脳裏を過る。抵抗は圧倒的な数の暴力により鎮圧され、奪われることに対する反逆の意思は不明瞭な恐怖によって挫かれるのだから。

 拳を握り、唇を噛み締めるダノフを一瞥したミーシャは深い溜息を吐くと建物の影から歩み出し、腰に吊っていたメイスを抜く。

 「あのぉ、何やってるんですかぁ?」

 「あぁ? 誰だテメエ」

 「誰でもいいじゃないですかぁ。えっとぉ、その女の人から手を離して貰っていいですかぁ? 見ていて気分の良いものじゃありませんのでぇ」

 「じゃぁ何だ? お嬢ちゃんが相手してくれんのか? いいぜぇ、来いよ可愛がってやるからさ―――」

 一瞬―――ほんの瞬き程度の時間でミーシャは傭兵の懐に潜り込み、脇腹にメイスを叩き込むと相手の股間を容赦無く潰す。

 「な、何」

 「黙れよ。臭い息を吐くな。汚らわしい視線を向けるな。潰すぞ? 屑が」

 鮮やかな身の熟しで他の傭兵の顎を砕き、目玉を潰したミーシャは後の事など知ったことかと言葉無く行動で示し、意識を断つ。

 「あ、あ、あ」

 「大丈夫ですかぁ? あ、手が血で汚れているので自分で立ち上がって下さいぃ。それとボクぅ? 自分の家族は自分で守らなきゃ駄目ですよぉ? お姉ちゃんとの約束ですぅ」

 「あ、あの、貴女は」

 「私ですかぁ? 聞かない方が身の為ってこともあるので、今見た光景は忘れて下さいぃ。仕事の邪魔ですのでぇ」

 怯え、唖然とする親子に背を向けたミーシャは目を瞬かせるダノフを連れて歩き出す。

 「み、ミーシャ殿、随分とお強いのですね……」

 「強くなる必要がありましたのでぇ」

 「貴女方と一緒に居た少年……あの黒鉄の剣士も貴女のようにお強いのですか?」

 「強いですよぉ? まぁ……本気で戦ったら私の方が敗けるかもですぅ」

 「そ、そうですか……」

 引き攣ったように笑い、俯いたダノフはイエレザが泊まる宿へ足を進ませた。
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