月は語る ②

文字数 1,696文字

 月は夜の帳を静寂で包み込み、空を覆う星々は天蓋に映る瞬き也。

 ザインから手渡された酒瓶をしげしげと眺めたアインは、フルフェイスの面頬を外しすと傷と渇きに塗れた口を近づけ、少しだけ飲み下す。

 強い苦味と喉が焼けるような感覚。味覚を置き去りにする程の強烈な薬草臭さ。やっとの思いで一口分の酒を飲み込み、熱い息を吐いたアインは食道から胃にかけて落ちる液体の感覚に呻き、甲冑の胸を掻く。

 「……」

 「少し強かったか?」
 
 「少しどころではないだろうコレは……」

 酒……。いや、これはそんな生易しい表現じゃ足りない。顔を覆い隠す兜の下で苦悶の表情を浮かべる剣士を他所に、ザインは含んだような笑い声を発する。

 「自前の薬膳酒だ。何時もは寝る前にコレを飲んで寝るんだ俺は」

 「……何処か悪いのか?」

 「いいや、身体は何処も悪くない。だが……そうだな、強いてあげれば精神の方だろう」

 「精神?」

 「あぁ」

 酒瓶を受け取ったザインが月を見上げ、一口呷る。

 「アイン、貴様は己の後ろに数多の命が立っていると言ったな? 俺の後ろには、俺自身が殺してしまった兵と戦士が立っている。前線へ送り出し、戦によって失われた若者の命が絶えず俺を見つめている」

 アインの瞳がザインの背後を一瞥するが、其処に広がる光景は月明かりに濡れた練兵場だけで、人っ子一人も居やしない。

 「終わらない人魔闘争と戦場に残る屍山血河。人を……命を喰らう地獄は悪夢となって俺の脳にこびりつき、精神を貪ろうと牙を剥く」

 年相応に老け込んだ老戦士の皺に濃い影が宿り、白濁色の瞳が天を仰ぎ。

 「俺はもう戦場で戦えない戦士だ。故に、こうやって練兵場で兵と戦士を鍛え、死地へ送る任を請け負っている。本当ならば……俺が真っ先に死ぬべきだった。死ぬべき時に死ねず、醜く生き永らえてきた俺が若輩者の背を押すなんぞ間違っている。そう思わねば……やってられん」

 多くの兵と戦士を戦場と云う地獄へ送り、死地を見せてきたザイン。黒鉄の下に在る傷だらけの身体も、生きる為に培われてきた技も、今となっては不名誉の称号と云っても良いだろう。

 「……それを俺に言ってどうする、ザイン」

 「別にどうしようと思っているワケでは無い。俺が言いたいことはただ一つ……圧し潰されるな。戦いの中でどれだけ多くの命を奪うことになろうとも、貴様の手で守れる人間が増えようとも、決してそれ等に圧し潰されるんじゃない。
 貴様が強くなり、守り、救い、殺す事が出来る者が増えてきたとしても、その命の重さに耐えられる……本当の強さを持て。それだけだ」

 「……」

 ゆっくりと立ち上がり、鋼の音を響かせたザインは重く感じた足を前に進ませる。
 
 己が抱いた意思と誓約は既に朽ち錆びた脆い道。道の果ては呪詛と怨嗟に満ちた闇が広がる奈落の底。だから……己と同じ道を歩んで欲しくない。戦場にだけ居場所を見出せるような想いを持ったとしても、違う道を見つけて欲しい。だから己は――。

 「強くなれ、アイン。貴様ならば、必ずや己の道を……己が望んだ道の果てに辿り着けるだろう。俺と違う道に、必ず」

 進もうとする者の糧となる覚悟は到の昔に出来ている。

 「ザイン」

 「……」

 「俺はどう足掻いてもお前のように……いや、他の誰かに成れるような者じゃない。この身体には、この器にはもう俺が居る」

 そうだろう。既に剣士の中にはアインと云う人格が存在し、自我が在る。

 「お前が俺に何を願い、何を祈ろうとも、俺は叶えようと思わない」

 「……何故だ?」

 「お前が生きているからだ。瀕死に陥り、死ぬのであればお前の意思を糧としよう。だが、現にお前は今も生きて、こうして言葉を交わす事が出来ている。だからお前は己の道を……まだ続くその方途を歩め」

 シンとした沈黙が二人の間に立ち込め、ザインの歩き出す音が響く。

 未だ苦しまねばならぬのか。未だ痛みを抱え続けねばならぬのか。未だ……死ぬことが許されていないのか。

 傷を負い、聖王が刻み込んだ呪いに呻く老戦士は酒を呷り、喉を焼くと自室へ向かい、後に残された剣士は地面に突き刺していたオウルを抜いた。
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