いつかの日々 ①

文字数 2,724文字

 遊戯室から脱出し、床に膝を着いたウィシャーリエは大きく咳き込み滝のような汗を額から垂れ落とす。

 もしあの時褐色の少女がズィルクの魔槍を防いでくれなければ死んでいた。心臓が命の危機を感じ大きく鼓動を高鳴らせ、耐え難い精神的疲労がストレスとなってウィシャーリエの体力と気力を削ぐ。

 「……う、っぐ」

 血と殺意、驚異的な力を持つ上級魔族の戦闘能力、両腕を斬り飛ばされたクオンの姿、今になって戦闘の情景がありありと脳裏に浮かび上がったせいか、少女の細い神経は限界を迎え、許容範囲を超えたストレスは胃酸と共に口から吐き出される。酸っぱい臭いが鼻孔をつき、嘔吐物特有の悪臭が口いっぱいに広がった。

 もう一度ズィルクと相見えてしまったら今度こそ命は無い。いや、そもそも自分達が居る水晶館そのものがズィルクが創り出した領域である以上、逃げ出す術も無い。例えるならば、生簀に捕らえられた哀れな魚。自分達は死を待つ魚であるのだ。

 怖い。死が怖い。助けを求め、声を上げて叫びたかった。眠っているサレナの下へ向かい、彼女の手を握り締めて咽び泣きたかった。自分自身を糾弾し、強い少女に縋りたかった。だが、それは出来ない。彼女にばかり頼っていられない。涙で滲む目を袖で拭ったウィシャーリエはクオンに肩を貸したまま立ち上がる。

 「……何処に行くのよ」

 「メイリアルさんのところに」

 「……アンタ馬鹿? この領域に居る以上、ズィルクに勝つなんて不可能よ。なに? 秘儀を会得している戦士が勝てなかったのに、戦う力が無いアンタが何をしようとも無意味だと思わないわけ?」

 分かっている。無力が己がどんな行動を取ろうとも上級魔族に勝てないことなど知っている。でも、動く。自分が動かなければ、友が命を落としてしまう。奥歯を噛み締めたウィシャーリエは重い脚を引き摺りながら階段を上る。

 「何で動けるのよ……。無意味だと思わないの? 絶望的な状況で頭がおかしくなったの? 何よ……昔のアンタは其処まで強い意思を持ってる子じゃなかったじゃない!!」

 「……助けたい人が、守りたい友達がいるんです。その子は私よりも何倍も強くて、自分の意思を曲げない強い芯を持った人。……こんな弱い私を友達だと言ってくれて、信じている。だから、私はサレナの想いに応えたい。私は彼女の友達だから」

 諦めろ、自分よりも格上の相手に勝てる筈が無い、領域内では全ての行動が無意味と化す……。絶望に染まり、恐怖の声を訴えるアトラーシャの心を見た少女は静かに呟く。諦めない、無意味と嘆かず無価値と見做さない、と。

 「アトラーシャ、私は決して諦めません。サレナの命を救い、ズィルクを救う事を」

 「アンタ、何を言って」

 「嘆きと後悔は何時でも出来ます。無力さに涙を流し、今日や昨日の自分に絶望することも何時だって出来るんです。でも、何も見えない明日に絶望するにはまだ早い。今日や昨日、自分がどんな行動を取って何を思っていたかは覚えて振り返ることが出来ますが、明日の自分のことは分からない。だからより良い明日を迎える為に、今出来る努力を積み重ねるべきなんです。変わらない毎日を変える為に、今を精一杯生きるんです」

 鳥籠の窓は既に開け放たれていたのだ。己に与えられていた一室から、少しだけ勇気を振り絞って足を踏み出せば何時だって外へ出ることが出来た。行動を起こさず、自分自身で作り出した恐怖と迷いの殻に閉じ籠り、鳥籠の安穏とした日々に甘えていたのは他でもないウィシャーリエ自身。見えもしない明日に怯え、周囲の人物達の心に恐怖していた少女は、一握り分の勇気の意味さえ知らずにいた。

 怯え、後悔するのは簡単だ。誰にだって出来る。だが、自分自身の未来を切り拓き、自分だけの未来と希望を手に入れるのは他の誰でも無い。自分だけなのだ。より良い明日を目指す為、今日を精一杯生きて歩み続ける意思を抱くのは己である。ウィシャーリエは琥珀の瞳に光を宿し、階段を上る。

 「おかしいわよ……もう負けが確定してるのに、どうして抗おうとするのか理解出来ない……。アンタ、本当に頭が」

 「アトラーシャ、口ではそう言っていても、心はまだ折れていませんよね? まだ、完全に絶望の闇に貴女は飲み込まれていない筈です」

 「アンタに何が分かるのよ……!」

 「私の力が貴女の心の姿を見聞きし、意思を伝えてくれています。……まだ私達は敗けていません。この命がある限り、敗北したことにはなりません。アトラーシャ、貴女が自分の国を守りたいのなら、私に力を貸して下さい。貴女の知恵と知識を、明日の為に使わせてください……! お願いします、

!!」

 「―――ッ!!」

 ウィシャーリエの言葉がアトラーシャを動かしたのか、彼女の眠れる意思が絶望に反旗を翻す心を呼び起こしたのか……。それは当の本人にしか知り得ぬことだが、拳を握り締めたアトラーシャは足を進め始める。王女としての責任を果たす為、国を守る王族の一人として、決意と覚悟を胸に宿す。

 上級魔族に戦士でも無い者が立ち向かうなど馬鹿馬鹿しい、死に驀進するなど愚か者のすることだ。しかし、此処で諦め絶望した瞬間、命を散らすのは己だけではない。魔導国家ワグ・リゥスの民が死んでしまうことを意味していた。故に、少女は消えかけた意思に再び火を灯し、ウィシャーリエが支えているクオンの左肩を担いだ。

 「……別にアンタの為に戦うわけじゃないわ。私は自分の国と民の為に戦うの。アンタの行動がワグ・リゥスの為になるのなら、私の叡智を貸してあげる」

 「ありがとうございます! アトラーシャ!」

 「あんまり大きな声を出さないで! ズィルクに見つかったらどうするのよ!」

 「す、すみません……」

 「……まぁいいわ。アンタ、メイリアルの部屋が何処にあるのか分かるの? いま館の使用人連中に聞くのは危険よ?」

 「そ、それは……」

 分かりません。そう言いかけた少女の視界の端に、魔槍の一撃から三人を守ってくれた褐色肌のエルファンが映り、ずらりと並んだ扉の一つを開ける姿が見えた。

 「……ねぇ」

 「……」

 「アンタ、今の見えた? あのエルファンが扉を開ける瞬間」

 「はい……多分ですが、彼女が開けた部屋にメイリアルさんが居るんだと思います」

 「信じるわけ?」

 「彼女は私達をズィルクの攻撃から守ってくれましたし、彼を助ける願いも彼女自身から聞いた気がします。……信じてみましょう、アトラーシャ」

 「……罠だったとしても、行かないよりはマシね。いいわ、行きましょ」

 二人で頷き合い、汗を拭いながら歩を進めた少女達は開け放たれた扉の先へ足を踏み入れた。

 
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