水晶館

文字数 1,749文字

 土も草木も空の色も、全てが藍色に染まっていた。

 此処には夢も無ければ希望も無い。絶望も無ければ悪意も無い。輝かしき希望は紺碧の水晶に埋もれ、光を飲み込む絶望は解けぬ氷によって永久に封じられる。

 何時か見た未来は遥か昔に消え果て失せた。在り得ぬ未来は時の牢獄に捕らわれ変わらない毎日を繰り返す。此処には、この水晶館には果てぬ夢と不変に囚われた者達が過ぎ去った筈の今日を繰り返す。

 館の窓……二階の角部屋から外を眺めていた褐色の肌を持つエルファンの少女は、武器を携えやって来る人類軍の部隊を見た。誰もが戦意と殺意を瞳に宿し、館の主である上級魔族ズィルクを討つ為に歩を進める。

 「心配するなメイリアル。彼の者達が何度此処にやって来ようと、無意味であることは君が一番知っている。私は彼等が人類であるからと殺しはしないし、

しない。水晶館はただこの地に存在するだけ。百年前の誓いを果たす為に、

は此処に居る」

 凍て付いた氷のような空気を纏う男、上級魔族ズィルクは少女の傍に音も無く現れ、人類軍の部隊を見据える。

 「何度でも来たらいい、何度でも私を討ちに来ればいい。館は彼等を拒まないし、私達も拒まない。何度だって繰り返そう、何度だって今日をやり直せばいい。おいでメイリアル、食事の時間だ」

 「はい、ズィルク様」

 変わらない。この館と森は不変に囚われ、其処に生きている生命も不変の円環に囚われている。同じ一日を生き、変わらない姿で今日を生きている。それは楽園の顕在化か、それとも地獄の鎖で繋がれた亡者の足首か。少女、メイリアルは白と藍が入り混じったドレスを翻す。

 「メイリアル様、今日の朝食はロールパンとベーコンエッグ、ジャガイモのサラダで御座います。お飲み物は貴女様のお好きな新鮮な牛乳ですよ」

 「メイリアル様、今日もお美しい御姿ですね。そうだ、貴方様の黒髪にお似合いになるかと思い、館の外で花を摘んで来ました。もしこの後お時間がありましたら、髪飾りを御作りになりませんか?」

 「メイリアル様、今日も良い天気です。ズィルク様がお許しになられましたら、外に散歩に行かれては? こんな日に中で過ごすなんて勿体ないですよ?」

 少しだけ数を増やした使用人。皆仕立ての良い衣服を身に纏い、

言葉を口にする。

 誰もが同じ毎日を繰り返していることに疑問を抱かず、誰もがこの日々を当たり前だと思っている。端から見れば、水晶館に住む人々の行動と言動は異常なものである筈なのに、全員が疑いを持たない様は不気味の一言に集約されるだろう。

 世界自体は変わらず時間が進み、動き続けている。人魔闘争による戦乱も、生命の行動と思考を支配する制約も機能している筈だ。常に人類と魔族は争い合い、互いを受け入れられないまま殺し合う筈なのに、何故自分達は世界の制約を受けないのだ。何故、誰もズィルクへ剣を向けないのかと、少女は思う。

 此処は楽園なのかもしれない。絶望、悪意、苦痛、人を苦しめる痛みが失われた館は、生きるだけならば天国に一番近く、生きる意味を見失ってしまう絶望に包まれている。

 此処は地獄なのかもしれない。希望が消え失せ、未来が閉ざされた館は、不変の無限奈落に陥った地獄なのか。変わらないことに慣れてしまえば、人は偽りの希望を抱いてしまう。

 何時からだろう、自分自身の記憶が薄れつつあることを知った日は。

 何時からだろう、記憶の中にある異種族の男との約束を忘れてしまったのは。

 失いつつある記憶と、今を受け入れつつある自分……。犯してはならない罪に触れ、愛を知った理由をメイリアルは最早朧気な記憶でしか覚えていない。だが、それでも、彼女はたった一つの記憶だけは忘れない。そう、あの悲哀を帯びた瞳だけは、忘れない。

 此処には希望も無かれば絶望も無い。たった一つあるものは、変わらない毎日とその日々を生きる館の住民のみ。当たり前が異常と化した水晶の森は、上級魔族ズィルクの支配の下、魔導国家ワグ・リゥスへ紺碧の根を伸ばすのだ。

 彼の魔族の願いを叶える為に、祈りを現実に持ち込む為に、ワグ・リゥスの古代魔導炉をその手に握るべく静かなる侵略と魔力汚染を引き起こす。言葉無き魔法災害は、確かな脅威と成って人類に牙を剥く。
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