臨界 ②

文字数 2,509文字

 男は酷く喉が渇いていた。灼けた右腕が痛み、少し動かすだけで身悶えするような激痛が奔った。

 片目が見えない。右目が闇に閉ざされ、強い圧迫感を感じた。震える指先で目を触ると其処には在る筈の瞳が無く、深い眼孔だけが在った。

 「―――」

 声を出そうにも喉が潰れ、確かな声を発することは出来なかった。荒い息を吐き、立ち上がろうとした男は煤と血に塗れた女に取り押さえられ、痛みも忘れて暴れ狂う。

 「落ち着いて下さい!! 貴男はまだ動いてはいけません!!」

 黙れ!! 此処で、こんなところで寝ていては、集まっていては、あの巨獣に全員殺されてしまう!! それに、仲間が……崩れた建物に戦友が生き埋めになっているんだ!! その手を離せ!! 俺は―――。

 遠くで巨獣の吠え狂う声が聞こえ、男の狂気が加速する。

 恐怖、畏怖、憎悪、憤怒……。様々な感情が入り混じった男の脳裏を過るは生の渇望と死への憧憬。戦士や兵士として命を散らした戦友への強い引け目が男の狂気に優しく口づけし、理想的な死への憧れを抱かせる。
 
 戦士としての誉れは人類の為に戦い、命を守る事に意義がある。こんなところで横になったまま、治療を受けて生き延びること等戦士の生き方ではない。戦え、剣を振るえ、血を求めろ……。死を促す悪夢の断片は巨獣の鳴き声と共に男の精神を狂乱の渦へ飲み込み、都市を覆い尽くす程の強大な殺意に共感を無理強いさせる。

 笑い声が聞こえ、その声が己の声であると男が認識するにはそう時間が掛からなかった。一滴、また一滴と眼が流す血涙がこめかみを伝い、褪せた白色のシーツに血痕残す。痛みと狂気に精神を冒された男は狂ったように笑い転げ、奥歯を噛み砕く。

 此処が戦場であるのならば、全てを血と死で満たせばいい。何故血で血を洗う戦場で傷を癒す必要がある。可笑しい、狂っている、馬鹿馬鹿しい……。男の身体を取り押さえる女の首を鷲掴みにし、軽々と圧し折った男は己の脳に存在する異物を感じ取る。

 それは、一つ目を瞬かせる魔なる幼体。精神が発する狂気と異常性を糧とし、魔力を啜って成長する繭状の異物。恐怖が快楽へ変換され、憎悪が殺意へ成り代わる。肉体を蝕む痛みはやがて無痛となり、生の渇望が枯れると死を求める意思が思考を支配する。

 死なせてくれないのなら、殺すのみ。殺して、殺して、殺し続けていれば何れ己を殺す誰かがやって来る。その者に殺して貰えば、戦士の死は完成される。それまで、死を刻み付けよう。人類の死を糧に、魔力を力に。

 男の肉体が異形なる生命体へ変貌し、灼けた腕が炎を纏う剣に成り変わる。空いた眼孔から細かな触手が湧き、焼け渇いた喉を通して火焔を吐き出した男は恐怖の瞳で己を見つめる民を見渡し、狂獣を思わせる雄叫びで吼えた。

 足の骨を折った老婆の胴体を切断し、簡易診療所へ列を成して並ぶ民に触手を突き刺し臓器を含めた血肉と魔力を啜り取る。命を取り込み、魔力を糧とすれば肉体に力が漲り強烈な幸福感、否、万能感を感じ得る。

 強く、強く、更なる力を得て立ち向かえ。恐怖と混沌、絶望を振り撒く巨獣に対抗せねばならない。守るのだ……守る……?

 一体誰を守ろうとしている。何故痛みに呻き、助けを求める民を、人類を守らねばならぬ。どうしてこんなにも弱い種を守らねばならぬ。意味が分からない。理解出来ない。したくもない。

 背を向けた女を真っ二つに斬り裂き、腕に抱かれていた赤子を踏み潰した男……流転体はその身に渦巻く狂気と殺意を以て死を撒き散らす。己を倒してくれる戦士を求め、簡易診療所へ足を進める。

 足りない……まだ足りない。この程度では至高の戦士とは出会えない。自分を殺し、栄光ある死を与えてくれる者は何処に居る? 何故こんなにも弱い種族が魔族へ立ち向かおうと剣を握る。愚かしい。

 絶望に塗れ、混沌の中で生きるが命の運命。如何なる選択を重ね、その道を切り拓こうと待っているのは死という残酷な現実。生きるとは苦痛を強いられる苦行。理想の死を迎える為に、命は生を享受し続ける。無力なる者は不条理な現実を受け入れねば無情たる終わりを迎えるのみ。それが……命ある者の歩みなのだ。

 「止まって下さい」

 凛とした声が聞こえ、背後を振り向くと二人の少女が流転体と化した男に杖を向けていた。

 「それ以上先へ進むこと……それは命ある者へ牙を剥けるということ。あなたはそちら側へ進むべきではありません」

 白銀の髪を靡かせ、黄金の瞳に光を宿した少女、サレナは杖先に魔力を集中させ、術を構築すると傷付き倒れた者達の傷を瞬く間に癒す。

 「サレナ、アタシが敵を叩く。アンタは民の治療を」

 「いいえ……脅威となる存在を倒すべきでしょう。アトラーシャ、攻撃術を扱う魔力は十分ですか?」

 「問題ないわ」

 アトラーシャの術によって空間が割れ、鈍色の輝きを放つ機械の騎士が姿を現す。騎士は少女の敵である流転体を視界に収め、剣を構えると流転体へ斬り掛かった。

 「アトラーシャ、あれは?」

 「戦闘特化型自立式魔導人形、その名もハガネ。まだ未完成なんだけど、余力を残している暇はないからね」

 ハガネと呼ばれた騎士は流転体が繰り出す炎の剣を軽々と弾き飛ばし、右腕を斬り飛ばすと同時に鈍色の装甲に包まれた拳を以て胸を貫き心臓を鷲掴みにする。

 「ハガネ、そいつは心臓を握り潰したところで死なないわ。魔族や人類と同じような戦い方をしては駄目。核を破壊するか目玉を潰しなさい」

 アトラーシャの指示を聞き入れた騎士は魔力感知を行い、流転体の命である核を認識すると圧倒的な膂力で組み伏せ、身の程大の剣を振り上げると頭を滅多刺しに斬り潰す。

 血が飛び散り、核と目玉ごと破壊した騎士はアトラーシャとサレナの前に跪き、頭を垂れる。

 「ハガネ、初起動早々申し訳ないのだけれどアンタに仕事を与えるわ。この簡易診療所を守り、さっきの敵と同じ存在を排除して。出来るわね?」

 無言で頷き、剣を握り締めたハガネは周囲を見渡し歩き出す。その様子を眺めたサレナは「あの、本当に人形なのですか?」とアトラーシャに問うと、彼女は「当たり前じゃない」と返した。
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