白痴 ②

文字数 2,910文字

 希望を見失った亡者の群れが列を成す。死した者を踏み砕き、生ある者は絶望に染まりながらも、自らが捨て去った希望を探し出す為に歩を進める。

 未来と希望は何処に在る? 周囲を見渡しても目に映るものは仄暗い闇ばかり。
 
 命ある限り苦痛と絶望は続くのか? 答えは否。我らが名も無き英雄が闇を払う。

 戦奴が生を求めてはならぬのか? 死は万物事象に訪れる平等である。

 我らが剣は名も無き銘。我らを導き率いる英雄は血肉と死に濡れている。彼の真紅の瞳は全てに死という絶対的な公平無私の終わりを下す刃である。故に、我等が生と自由を剥奪された戦奴で在り続ける限り、黒の凶剣に続くのだ。彼こそが、我等の王であると讃えよう。

 王が座す玉座は無し。英雄が振るう刃は酷く錆びついた鈍器のような大剣。彼の甲冑は乾き酸化した血肉によって黒に染まり、悪臭を放っている。戦い続けた剣士へ民が石を投げつけ、兵が心無い言葉で誹ろうが我等戦奴だけが彼を英雄と語り継ごう。

 何時か、我等には逃れられない破滅が訪れる。苦難と受難の終わりは見えず、絶え間ない戦いにより屍ばかりが積み上がる。勝利に酔いしれる暇は無く、敗北による死者を弔う時間は無し。今が終われば次の戦場に向かわされ、疲労と傷が癒えぬまま痛みを抱え戦闘に臨む。

 誰もが疲れ、誰もが希望を見失い、誰もが絶望に浸っていた。奴隷でのみ構成された戦奴部隊の全員が目を虚ろにさせ、飢えと寒さに震えていた。カビた固いパンを齧り、泥水を啜り、草や根を掘り起こしてはしゃぶっていた。誰もが絶望し、希望を見捨てる中、剣士だけは敵と呼ぶべき存在を見据え、剣を握ると強烈で鮮烈な殺意を纏って敵陣へ斬り込み殲滅と殺戮を繰り返す。

 剣士の単騎突撃による一度目の勝利は、戦奴は偶然の奇跡と見る。二度目の勝利は敵兵や味方である帝国正規兵をも殺戮し尽くし、剣士の瞳に微かな希望を見出す者が現れたが、尚も戦奴は絶望に濡れる。だが、三度目の勝利となると彼等は剣士に確かな希望と薄れた英雄像を見た。

 永遠の搾取と重い鎖に繋がれた奴隷となる前、幼き頃より聞かされた輝かしき英雄像と血と肉片を甲冑全体に纏う剣士では姿形が違う。苦難に挑み、弱きを助け強気を挫く高潔な精神性も、輝石の如き容姿も持ち合わせていない剣士に我等は失われかけた英雄の姿を見る。あの、圧倒的な殺意と人間離れした戦闘能力に希望を見出したのだ。

 何時どこで死ぬかも分からぬ命は明日を求め得るのか。尊厳と自由を剥奪された戦奴は希望を求めてはいけないのか。そんなことは分からない。戦場で死ぬことは戦士であれば誉であろうが、剣を真面に握ったことも無い奴隷であれば誉ある死など求めない。戦奴達はただ生きたいだけであり、死にたくないのだ。

 帝国の侵略と支配により奴隷に堕とされた者、産まれた瞬間から奴隷であった者、謀略と策略によって奴隷となった者、腐敗と汚濁に塗れた貴族の奴隷として捨てられた者……。戦奴部隊に配属された奴隷の出身は様々であり、皆容姿、性別、人種、全てが違っていた。違っていた故に、剣士に見た英雄像は皆異なった。

 彼は誰にも従属しない狂戦士。頭を抑えつけられれば相手の腕を折ってまで反抗し、剣を向けられれば問答無用で大剣を振り抜き臓物を撒き散らす。帝国軍の将兵が剣士の問題行動を弾劾したところで、その心に悪意や敵意が存在していれば彼は真紅の瞳に殺意を滾らせ殺す。味方であっても殺す。彼の思考には、己と敵が存在し、味方という概念は存在しない。

 剣士の刃には忖度や贔屓といった意思は無い。敵を殺す為だけの凶刃に情や迷いなどがある筈が無く、敵と見做された存在は皆平等に死を与えられる。だからとでも云えようか、剣士の命を値踏みしない行動と相手がどんな立場であろうとも剣を抜く姿から、戦奴は絶対的な信頼を置くに至る。

 剣士の戦い方と行動をずっと観察してきたラグリゥスは一つの結論に辿り着く。彼は戦奴という弱い存在に興味など無く、敵や味方の言葉と顔さえも理解していない。剣士が理解しているのはどう動き、どう剣を振るえば敵を合理的かつ効率的に殺せるかであり、自身の傷も評価も何もかもを捨て去って血肉と死を求めているに過ぎないのだと気付く。

 殺戮と殲滅、自身に牙を剥く存在を殺し尽くした戦場で血を浴びる剣士。甲冑が破壊され、大剣が返り血と脂で染まろうと決して歩みを止めない悪鬼修羅。絶望を更なる絶望で塗り潰し、戦場という生死の循環を模した一つの世界を破壊する

。彼が剣を振るった後には屍の山と血の河が流れ、赤と黒に染まる。

 亡国の騎士であった頃ならば、彼の凶剣と出会ったならばその危険性と異常性に目を覆って蹲るだろう。だが、戦奴に堕とされた今では剣士の存在は何よりも頼もしく見えてしまう。

 剣士が戦奴部隊の隊長として配属された日から、戦奴達の生存率は劇的に改善したのだ。飢えや病による死者数は帝国軍の捨て鉢である故に、改善が難しい現状だが戦闘における死傷者数は極端なまでに減少した。以前であれば一度の戦闘で部隊の八割が死していたが、剣士が先陣を切り単騎で敵軍を殲滅し、悪戯に部隊の戦奴に魔法や弓を射る味方である筈の帝国軍を殺し尽くすことで生存率が跳ね上がったのだ。

 部隊の戦奴を守るための行動では無いと分かっている。誰かを生かしたいから剣を振るっているのでは無いと分かっている。だが、それでもと、ラグリゥスは剣士に対する洞察を深めていく。

 彼が血肉と死を求め、敵を殺し尽くすのであればせめて剣士の戦いを支援できるよう奴隷部隊の戦い方を変えなければならない。彼が敵陣まで最短で一直線に駆け抜けられるよう道を整え、無駄な動きを減らさなければならないと思考した結果、ラグリゥスは剣士に許可を得ないまま奴隷部隊全員の戦闘素養を把握した。

 剣を振り切れないまでに弱っているのなら、弓を射れるよう教示する。魔法の素質がある者が居たならば、部隊の賢者に指導教官を願い簡単な魔法を扱えるよう訓練を繰り返す。ラグリゥスはありとあらゆる方法を使って、希望を求めたのだ。

 ラグリゥスの希望と生き残る意思を剣士は知らない。知らないのだが、彼の努力が功を奏してか、奇跡的に剣士の耳がラグリゥスの言葉を理解した。

 「私の名はラグリゥスと申します剣士殿。貴方の名を聞かせて頂けませんか?」

 「ラグリゥスと名乗る肉塊よ、貴様の頭の中には既に策は在るのか?」

 「はい」

 「ならば貴様は策を成せ。俺は俺の剣を振るうだけだ」

 「貴方様の意思の儘に」

 剣士はラグリゥスの姿など無かったかのように彼へ背を向け、戦場へ向かう。破壊され、錆と血肉に塗れた大剣を担いだまま殺戮へ赴いた剣士の姿を見送ったラグリゥスは、声を張り上げると戦奴へ指示を下す。
 
 「我らが英雄は戦いへ向かった!! 我らの力が英雄の道を開き、栄光へ至らせるのだ!! 故に、同胞よ武器を取れ!! 彼の刃となるのだ!!」

 勝利への渇望は生きる意思である。敗北とは死ぬ意思と知れ。

 ラグリゥスの胸の燻った火種が剣士の殺意と意思により、再び燃え上がったのだ。
 
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