人として ①
文字数 2,312文字
工場から少し離れた場所でミーシャは足を止めた。
「ダノフさん、その傷はぁ」
「いいんです、気になさらないで下さい。次の段階に移りましょう」
肩から血を流し、大粒の汗を額に滲ませたダノフが苦痛に歪んだ笑みを浮かべ、小さな段差に躓き態勢を崩す。
老人の傷は致命傷に至らない浅いものだった。戦場で剣を振るう戦士や兵であれば、その傷を負ったまま戦い続けることが出来る些細な刃傷。彼の腕を支え、血に混じった異臭を嗅ぎ取った少女は深い溜息を吐き。
「その傷……処置しなきゃ死にますよぉ? ダノフさん」
老人を蝕む病の足音を聞いた。
「……それは覚悟の上です。あの場を……彼等の暴走を止めるには、私の身を差し出す他術は無かった。それに後悔はありません」
「後悔は無いって……。あのですねぇ、直ぐに清潔な水で傷を洗い、癒しの術を受けることをお勧めしますぅ。破傷風か何らかの感染症に罹りますよぉ?」
「それでも、私は、行かなければ……。自分の……罪悪のケジメを、つけに」
悪臭の原因は刃に塗られた糞尿だ。何の知識を持たない民間人が使う最悪の毒がダノフの身体に入り込み、血の流れに沿って体内を駆け巡っていた。
己には彼をエルストレスの屋敷へ連れて行き、その道中の護衛任務がある。敵が立ちはだかるのならば打倒し、戦闘不能の状態に追い込まなければならない。だが、護衛対象の身に危機が迫っているた場合、直ぐに治療させるべきだろう。
「駄目ですぅ。貴男は治療を」
「それでも、進まなければならないのです……!! ミーシャ殿、私はもう、後悔したくない……!! この身が病に蝕まれようと、消えて無くなろうと、民の未来を切り拓く糧とならなければならない!! だから、お願いです……。私を、エルストレスの……あの馬鹿者の屋敷まで、連れて行って下さい……」
命の蝋燭があるのなら、燃え盛る炎が火の粉を散らしているのなら、ダノフは己に課した最期の義務を全うしようとしているに違いない。猛烈な速度で蝋を溶かす炎を……命を燃やす老人は少女に懇願する。
どうしたらいいと逡巡する。イエレザに通信を繋ぎ、彼女の判断を待つべきだろうか? それともダノフの意思を踏み躙り、命を救うために動くべきだろうか? だが、もし処置が間に合わなければ彼は後悔と悔恨の中で死ぬ。ならば、己は。
「……もし、もし、私の心配をしてくれているのなら、貴女は優しい人だ」
「……」
「ミーシャ殿……私は、私の人生は、間違えてばかりのものだったのかも知れない……!! だが、それでも!! 行かねばならぬのです!! 民の未来の為に、町の為に私は町長として最後の責務を果たさねばならぬのです!! だから、どうか、私を―――!!」
「……話している時間が勿体ないですねぇ」
「……」
ダノフを背負い、駆け出したミーシャは広場を通り抜け、エルストレスの屋敷を目指す。
「……貴男はエルストレスにどんな言葉を掛けようとしているんですかぁ? 肩を負傷し、血を流している状態じゃぁ殴りも出来ませんよねぇ」
「……彼に一欠けらの良心が残っているのなら、もうこんな馬鹿げたことは止めろと、父上のような立派な領主になるように、話してみるつもりです」
「それは無理だと思いますよぉ? 奴の傲慢な性格は死んでも治りません。肥大した自尊心と欲望を血抜き出来るとでもぉ? 無理でしょう?」
「それでも……前領主が残した一人息子を、奴を信じるのは、私の責務なのです。どれだけ悪に染まろうと、まだやり直せると説きたいのは、間違いなんかじゃないと、信じたい」
「……それが、命を燃やす理由ですかぁ?」
「……はい」
後ろに戻ることは許されない。己が犯した罪を清算し、絶望の花を咲かせた悪を圧し折り根絶させる為、全てを捧げよう。
「これを」
「……これは、なんですか?」
「イエレザ様から受け取った一方通信用魔導具ですぅ。もし、貴男が本当に自分の命を使い潰そうとしているなら、これを渡せと言われていましたぁ。エルストレスと対峙し、言葉を交わそうとした時に起動して下さいぃ」
少女が老人に手渡した魔導具は掌サイズの丸い水晶体だった。一方的に通信を送ることが出来る魔導具の用途は限られているが、ダノフは己の手に渡った水晶の意図を理解する。
イエレザが示した分岐点に己は立っている。ダノフが話す言葉と行動によって先の未来が決まると云っても過言ではないだろう。故に老人は笑った。救いはあるのだと、静かな微笑を湛えたのだ。
「……ミーシャ殿」
「はいぃ?」
「人は、人という生き物は、何度でも、立ち上がれるのです」
「何ですかぁ? いきなりぃ」
「それは、町も例外ではありません。何度間違えても、その間違いに気づき、生きていくから人は前に進むことが出来る……。過ちを、間違いを、繰り返すべきでは、ありません。そうでしょう……?」
「ダノフさん?」
明日の為、希望の為に、己は死ぬ。
死を無意味なものにさせない。この命が燃え尽き、後に残された民と町が生きて行く為の最後のチャンス。魔導具を握り、荒い息を吐いたダノフは白く濁った眼で前を見据え、足蹴にされる傭兵を一瞥する。
「……あの方に」
「……」
「あの黒い剣士に、出会うことが出来たら、申し訳ないことをしたと、伝えて下さい。お願いします。ミーシャ殿」
「貴男は、本当に」
「お願いします……」
「……分かりましたよぉ。ダノフさん」
小さく頷き、少女の背から降りたダノフは屋敷の門を潜り、疲れた笑顔を浮かべ。
「何から何までお世話になりました……。ありがとう」
「ダノフさん、その傷はぁ」
「いいんです、気になさらないで下さい。次の段階に移りましょう」
肩から血を流し、大粒の汗を額に滲ませたダノフが苦痛に歪んだ笑みを浮かべ、小さな段差に躓き態勢を崩す。
老人の傷は致命傷に至らない浅いものだった。戦場で剣を振るう戦士や兵であれば、その傷を負ったまま戦い続けることが出来る些細な刃傷。彼の腕を支え、血に混じった異臭を嗅ぎ取った少女は深い溜息を吐き。
「その傷……処置しなきゃ死にますよぉ? ダノフさん」
老人を蝕む病の足音を聞いた。
「……それは覚悟の上です。あの場を……彼等の暴走を止めるには、私の身を差し出す他術は無かった。それに後悔はありません」
「後悔は無いって……。あのですねぇ、直ぐに清潔な水で傷を洗い、癒しの術を受けることをお勧めしますぅ。破傷風か何らかの感染症に罹りますよぉ?」
「それでも、私は、行かなければ……。自分の……罪悪のケジメを、つけに」
悪臭の原因は刃に塗られた糞尿だ。何の知識を持たない民間人が使う最悪の毒がダノフの身体に入り込み、血の流れに沿って体内を駆け巡っていた。
己には彼をエルストレスの屋敷へ連れて行き、その道中の護衛任務がある。敵が立ちはだかるのならば打倒し、戦闘不能の状態に追い込まなければならない。だが、護衛対象の身に危機が迫っているた場合、直ぐに治療させるべきだろう。
「駄目ですぅ。貴男は治療を」
「それでも、進まなければならないのです……!! ミーシャ殿、私はもう、後悔したくない……!! この身が病に蝕まれようと、消えて無くなろうと、民の未来を切り拓く糧とならなければならない!! だから、お願いです……。私を、エルストレスの……あの馬鹿者の屋敷まで、連れて行って下さい……」
命の蝋燭があるのなら、燃え盛る炎が火の粉を散らしているのなら、ダノフは己に課した最期の義務を全うしようとしているに違いない。猛烈な速度で蝋を溶かす炎を……命を燃やす老人は少女に懇願する。
どうしたらいいと逡巡する。イエレザに通信を繋ぎ、彼女の判断を待つべきだろうか? それともダノフの意思を踏み躙り、命を救うために動くべきだろうか? だが、もし処置が間に合わなければ彼は後悔と悔恨の中で死ぬ。ならば、己は。
「……もし、もし、私の心配をしてくれているのなら、貴女は優しい人だ」
「……」
「ミーシャ殿……私は、私の人生は、間違えてばかりのものだったのかも知れない……!! だが、それでも!! 行かねばならぬのです!! 民の未来の為に、町の為に私は町長として最後の責務を果たさねばならぬのです!! だから、どうか、私を―――!!」
「……話している時間が勿体ないですねぇ」
「……」
ダノフを背負い、駆け出したミーシャは広場を通り抜け、エルストレスの屋敷を目指す。
「……貴男はエルストレスにどんな言葉を掛けようとしているんですかぁ? 肩を負傷し、血を流している状態じゃぁ殴りも出来ませんよねぇ」
「……彼に一欠けらの良心が残っているのなら、もうこんな馬鹿げたことは止めろと、父上のような立派な領主になるように、話してみるつもりです」
「それは無理だと思いますよぉ? 奴の傲慢な性格は死んでも治りません。肥大した自尊心と欲望を血抜き出来るとでもぉ? 無理でしょう?」
「それでも……前領主が残した一人息子を、奴を信じるのは、私の責務なのです。どれだけ悪に染まろうと、まだやり直せると説きたいのは、間違いなんかじゃないと、信じたい」
「……それが、命を燃やす理由ですかぁ?」
「……はい」
後ろに戻ることは許されない。己が犯した罪を清算し、絶望の花を咲かせた悪を圧し折り根絶させる為、全てを捧げよう。
「これを」
「……これは、なんですか?」
「イエレザ様から受け取った一方通信用魔導具ですぅ。もし、貴男が本当に自分の命を使い潰そうとしているなら、これを渡せと言われていましたぁ。エルストレスと対峙し、言葉を交わそうとした時に起動して下さいぃ」
少女が老人に手渡した魔導具は掌サイズの丸い水晶体だった。一方的に通信を送ることが出来る魔導具の用途は限られているが、ダノフは己の手に渡った水晶の意図を理解する。
イエレザが示した分岐点に己は立っている。ダノフが話す言葉と行動によって先の未来が決まると云っても過言ではないだろう。故に老人は笑った。救いはあるのだと、静かな微笑を湛えたのだ。
「……ミーシャ殿」
「はいぃ?」
「人は、人という生き物は、何度でも、立ち上がれるのです」
「何ですかぁ? いきなりぃ」
「それは、町も例外ではありません。何度間違えても、その間違いに気づき、生きていくから人は前に進むことが出来る……。過ちを、間違いを、繰り返すべきでは、ありません。そうでしょう……?」
「ダノフさん?」
明日の為、希望の為に、己は死ぬ。
死を無意味なものにさせない。この命が燃え尽き、後に残された民と町が生きて行く為の最後のチャンス。魔導具を握り、荒い息を吐いたダノフは白く濁った眼で前を見据え、足蹴にされる傭兵を一瞥する。
「……あの方に」
「……」
「あの黒い剣士に、出会うことが出来たら、申し訳ないことをしたと、伝えて下さい。お願いします。ミーシャ殿」
「貴男は、本当に」
「お願いします……」
「……分かりましたよぉ。ダノフさん」
小さく頷き、少女の背から降りたダノフは屋敷の門を潜り、疲れた笑顔を浮かべ。
「何から何までお世話になりました……。ありがとう」
共犯者
の下へ向かうのだった。