剣士と少女 ②

文字数 2,933文字

 少女は両手を空へ伸ばし、無色透明な空気を掴む。

 何度も、何度も、何度も……。彼女の世話を命じられた女中がその手を遮ろうとも、少女は己にしか見えない道筋をその手に掴もうとする。

 「――――」

 女中が少女に話し掛けるが、その言葉は彼女の鼓膜を震わせる前に露となって意味を消失させた。

 「――――」

 少女の手を引き、無理矢理立ち上がらせようとした女中の手を魔力の刃が斬り刻み、形も残らぬ肉片と化す。女中は突然の出来事にパニックを起こし、血が吹き出る右手首を必死に押さえる。

 白痴と称され、色を纏わぬ無垢と呼ばれる少女は人を人として見れない。人の形をした人形が当たり前のように存在し、己に接してくる異常。彼女は生まれながらにして世界の異物として生きている故に、常人とは違った世界を見続けていた。

 言葉も解さず、理解も示さない少女。帝国王位継承権末席に座す白銀の姫君、サレンは以前見た剣士をふと思い出す。

 強烈な殺意とこの世界を焼き焦がす程の憤怒を瞳に湛えた男は、必ず己を手に入れると宣言した。サレンという人の形をした何かを欲した剣士は、どうなったのだろうと少女は思う。

 死んだのか生きているのか。何方にせよ、サレンの容貌に惹かれただけならば、手に入れようとした意思も途絶えよう。だが、真に彼女を得たいとし、己の力を得たならば剣士は必ずやって来る。予知と迄はいかないが、少女は何となくそう感じていた。

 「――――」

 王城の中庭に踏み込んで来る者がいた。その者は手首から血を流す女中に視線もくれず、サレンの真横に跪くと声を発する。

 「必ず手に入れる。俺は確かにそう言った」

 聞いたことのある男の声。

 「貴様が俺を認識せず、人だと思わなかろうがそんな事は関係無い。俺は初めて人だと認識することが出来た貴様が欲しい。
 その美しい白銀の髪、何者をも映さぬ白銀の瞳、力の価値を知る故に孤独である貴様が欲しいのだ」

 男……剣士の口から流れ出る言葉は初めてサレンの鼓膜を震わせ、その意味を理解させる。

 空に伸ばされていた両手が下ろされ、白銀の瞳が剣士を見る。剣士の姿は世界に蠢く人のような人形とは違い、一つの生命としての力に満ち満ちていた。

 身に纏う黒甲冑からは無数の亡霊の存在を感じ、剣士の真紅の瞳には揺るがない意思と自分自身への誓いを感じ取る。鮮烈で圧倒的な殺意と、暴風雨のように荒れ狂う憤怒と憎悪。
 
 常人では己の感情に狂わされてしまう程の激情の中でも、剣士は理性を失わず言葉を語る。

 「どうか俺の手を取ってくれないだろうか? 俺と共に生きてくれないだろうか? 
白銀の君、白の君。我が意思と誓いを捧げられずとも、我が人生と剣を運命に捧げよう。俺と共に……歩いてくれ」

 剣の柄をサレンへ向け、剣先を己の胸に向けた剣士アインは真紅の瞳で彼女を見据える。

 彼の持つ魔剣は生命という存在へ殺意を向ける意思の剣。剣に内包される世界の殺意は持ち主であるアインであろうとも命を奪い、喰らい尽くす。その剣の柄をサレンへ握らせ、剣士の急所である心臓へ刃を向けるという行為は、命を捧げるという意味を表していた。

 「……」

 少女は何も語らない。

 「……」

 彼女の内に在る思いは、何故強大な力を持つ剣士が己を欲するのかという疑問。

 彼がその気になれば世界中の生命を蹂躙し、殺し尽くした末に自分を手に入れる事が出来る。立ちはだかる障害を破壊し、目的を阻害しようとする存在へ破滅の剣を以て死を与えながら進む事が出来るのに、何故そうしないのだろう? 何故自分よりも弱い存在を認識し、副官として登用するのだろう? 何故……



 世界に覇を唱え、生命の在り方に異議を申す権利をサレンとアインは持っている。行動を起こし、世界という悲劇と悲嘆に溢れる舞台を再構成する能力を持っている。筋書き通りに進められる歴史を粉砕し、都合の良い破片だけを拾い上げて新たな世界を作り出す鍵を内に抱いている。鍵を持ち、領域へ至る道を駆け抜けている最中のアインを見つめた少女は、彼のフルフェイスへ手を伸ばし冷たい鋼に触れる。

 「……貴男は、どうしてそんなに人間のフリをしているの?」

 生まれて初めて少女が発した言葉は鈴の音のように清らかで。

 「黒い剣士さん、貴男は一度も自分の人生を認めた事が無いのに、どうして私を欲するの?」

 無色透明な無の感情に囚われていて。

 「貴男は……どうして自分自身の生と力に怯えているの?」

 幼子の心をそのまま言葉にしたように、無辜の心でアインに問いを投げ掛けた。

 「……俺は、ずっと一人で生きてきた」

 ずっと一人……戦場で敵を殺し続けていた記憶を掘り起こす。

 「一人で戦い続け、敵を殺し続け、その血肉の温もりだけを求めていた。敵の武器で斬りつけられた傷の熱も、戦いの中で感じる熱も、生死の中で感じる熱だけが温もりだと妄信していた。……だが、それは間違いだった」

 誰かが居るから温もりを感じる事が出来る。一人孤独に戦い続け、他者を認識せず肉塊と見ているだけでは身体に熱があっても心が冷える。冷えた心は渇望と欲望を剥き出しにして更なる血肉を要求し、絶える事の無い激情と意思をも死に至らしめる。

 「殺意を向けるにも、憎悪を抱くにも、憤怒を滾らせるにも、必ず誰かが必要なんだ。その誰かが自分自身にとって身近なものである程に、俺の激情と意思は絶えず燃やされ鋭利な剣となる。ラグリゥス、カラロンドゥ、部隊の戦士達……彼等の存在が俺に温もりを与えてくれる。今にして思う……俺は身近な存在を守りたいんだ」

 己の内に宿る力が発する激情は消し去れない。己の在り方を定義付けた意思と誓いを曲げる事は出来ない。戦いを続ける中で己の殺意の刃が正気を失い、守るべき存在に向けられてしまう事が今は恐ろしい。強大な力を持つ個人である事が、何よりも恐ろしい。

 「何時か生命は必ず死ぬ。死に場所を選べず、死ぬ時を選べずに人は死ぬ。どんな希望を抱き、絶望に沈み、未来へ歩もうとする意思を持っていたとしても必ず死ぬ時がやって来る。以前は何も思わなかった。一人で戦っていた時は死を振り撒く存在であればよかった。だが、守る存在を認識し、他者を意識した時、俺が死んだときに何が残るのだろうと」

 人が死ぬ時、故人を偲ぶ家族や仲間が居る者は幸せだ。だが、そんな存在も人で在る以上時が経つにつれ少しずつこの世を去り、最後には誰も居なくなる。記憶している者が居らず、記録されている文書が存在しなくなった時に初めて人はこの世を去る。

 「死にたくないし、生きたくともないと思っていた。俺は記憶される程に優れた人物でも無いし、何かに記録される程の偉業を成した者でも無い。常に激戦地に赴く部隊の長である以上、如何に生き残り続けようと何時か死ぬ。人を殺し、戦いに身を置く者の矛盾だが、一人だけ、俺と同じような力を持つ貴様にだけは覚えていて欲しいと思った」

 そっと、少女の頬に触れたアインは部隊の誰も見た事の無い優し気な瞳で少女を見据え、一つ呟く。

 「俺の運命、初めて人として見えた貴様にだけは、忘れられたくない」

 そう、自分の弱さを吐露した。
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