人心故に ③

文字数 2,822文字

 大勢の人々が行き交う市場に一つの人だかりが出来ていた。

 木箱に腰を下ろし、少年の口腔内を魔石灯で照らしたトーランスは喉の腫れを確認し、紅潮した頬を触り聴診器を用いて心臓の鼓動、肺の動きを診察すると医療用鞄から内服魔法薬の小瓶を取り出し、少年の母親に手渡す。

 「扁桃腺の腫脹が見られるね。それと脈も速いし、息苦しさも感じている筈だ。風邪症状と見て差し違い無いだろうが、一週間分の魔法薬を出しておこう。使い方は分かるか?」

 「えぇ、一応……あの、先生、息子は大丈夫なんですか?」

 「もし容態が急変したら、この住所に描いてあるキープハウスに来てくれ。診療所は一応屋敷の一室に在るんだ」

 熱はそう無い筈だ。脈拍と息苦しさが見られるが、薬が効けば和らぐ筈。少年の状態をカルテに書き込んだトーランスは次の患者を呼び出し、痛みがある部分を問う。

 「爺さん、今日はどうした? また腰をヤッタのか?」

 「先生、今日は腰じゃなくて歯が痛くてよ。これじゃ満足に酒も飲めやしねぇ」

 「酒は止めろって言っただろ? まったく……ほら、口開けて見せろ」

 大きく口を開けた老人の口腔内を観察し、黒ずんだ歯を見つけたトーランスは深い溜息を吐くと木箱が並べられた診察台へ横になるよう促す。

 「な、何だ? どっか本当にヤバいところでもあったのか?」

 「ただの虫歯だよ、安心しな。麻酔を打って、駄目になったところを削って詰め物をする。簡単な術式だよ」

 横になった老人の歯茎へ麻酔を打ち、医療鞄から滅菌されたメスと精密魔導具を取り出すと集まった民衆の中から一人手招きし、魔導灯で患部を照らすよう指示を出す。

 「爺さん、酒は良くないぞ? 薬酒ったって酒は酒だ。節度を守って楽しく飲むが本当の酒飲みってやつさ。……ほれ、終わったぞ。あとは痛み止めと解熱剤を飲んで寝てれば大丈夫だ」

 「す、すまねぇな先生……。それでよ、もう一つ相談なんだが」

 「何だ? 長話ならまた今度にしてくれよ?」

 「先生は独り身だよな? どうだ、ウチの孫娘を嫁に」

 「あー……すまん爺さん、俺は好きで一人でいるんだ。所帯を持つなんて考えられん」

 「そりゃぁ残念だ! いやぁ、先生みたいな男になら案心して孫を任せられるんだがなぁ」

 老人が財布から銀貨を二枚摘まみ取り、気持ち入れと書かれた箱に入れる。

 金銭的余裕は無いが、必要以上に金を要求しない。医療報酬の法が存在しない以上、医療行為の報酬は医師が決めることが多い。ある者は多額の金額を患者へ要求し、またある者は闇医者同然の身分でありながら己が開発した術式を患者からの了解を得ずに施術する。

 トーランスのように少ないの金銭を気持ちとして受け取り、物資による支払いを認めている医者は極めて稀な存在だろう。民が知る限り彼は多額の報酬を要求したことは無く、相手がどんなにみすぼらしい恰好をしていても己の患者として向き合い、適切な治療を施す様は聖人のように見えた。

 「先生、今朝採れた新鮮な野菜だよ! 持って行きな!」

 「すまない、何時も助かるよ。それで今日はどうしたんだ? 指の関節痛は治ったか?」

 「先生の薬を飲んでから随分と痛みが和らいだよ! すこぶる調子が良いもんだから朝早くから畑仕事をしていたんだ! まぁ、朝の分の薬は飲み忘れたんだけど」

 「婆さん、仕事に精を出すのは良いが薬はちゃんと飲め。いいか? 俺が治せるのは外科的なモノだけだ。身体の内側……関節や骨、内臓器官は薬と時間が癒してくれるんだぞ? 家族に迷惑を掛けたくないなら俺の指示に従ってくれ」

 「分かったよ先生! それでさ、縁談の話なんだけど」

 「アンタもその話をするのか? 俺は好きで独り身なんだよ。全くもって結婚する意思は無い」

 「何でさ? 先生みたいな医者なら引っ張りだこだろうに」

 「……俺は別に誰からも必要とされる出来た人間じゃない。医者として生きて、今を生きる誰かを救えたらいいなって考えてるだけさ。……ほらいったいった! 次の患者が控えてるんだ!」

 「はいよ! 次もまた頼むよ先生!」

 これ見よがしに次々と椅子代わりの木箱に座る患者を診察し、必要な処置と薬を処方するトーランスは医療鞄に詰め込んでいた魔法薬が底をついた事に気が付く。

 気持ち入れに詰め込まれた野菜と干し肉を掻き分け、金銀銅貨を拾い集め、価値のあるアクセサリーを握り締めたトーランスは人の壁となった民を見渡し、魔法薬の心得を持つ者を探すが誰一人として彼のお眼鏡に適う人物は見当たらない。

 予想以上に人が集まる事態に備えておくべきだったのかもしれない。己を求め、大なり小なり助けを求める民を放って魔法薬販売店に向かう事は出来ない。だが、診察と処置だけでは病や傷の根治は不可能と判断し、店仕舞いを告げるべく息を大きく吸ったトーランスに一人の女が近寄った。

 「先生、何が必要ですか?」

 「スーリアか。話は済んだのか?」

 「はい」

 「……深くは聞かないでおこう。そうだな、解熱作用がある魔法薬と痛み止めの魔法薬が欲しい。金とアクセサリーを渡すから買ってきてくれないか?」

 「ご安心を。既に持って来ています」

 大人の頭が二つ入りそうな、底が深い鞄を地面に置いたスーリアはトーランスの思考を読み取ったかのように彼が必要としていた薬を手渡す。

 「用意周到だな」

 「もしもの為に準備していただけです。先生、あとは何が必要ですか?」

 「新規患者の看護記録、医療カルテの作成を頼む。それと、君が開発したバイタル測定の魔導具が欲しいな」

 「はい、先生」

 スーリアが開発したバイタル測定の魔導具は掌に収まるサイズであり、脈拍から血中酸素濃度、血圧といった基本的な情報をモニターに浮かび上がらせる魔導技師から見ればつまらない物だった。

 だが、使用者が術師或いは魔導技師以外の者……医者や医療の現場に携わる者であれば話は別だ。肉体の異常を数値として視認することができ、時間と共に変わりゆく情報がリアルタイムで確認出来る魔導具は世紀の発明と言っても過言ではない。

 「スーリア、君は俺から医療を学びたいと言っていたな?」

 「はい」

 「なら実践してみるか?」

 「え?」

 「習うより慣れろ、だ。安心しろ、間違えていても俺が修正するし、必要な情報も包み隠さず教えてやる。俺だって基となる知識と技術は軍医の頃……戦場で学んだ。幸せなことだぞ? 時間に追われず、命の取捨選択を強いられない状況で学べるなんてな」

 自分が座っていた木箱から立ち上がり、スーリアに座るように促したトーランスは己の白衣を彼女に着せ、今まさに診ようとしていた少女と向き合わせる。

 「座学だけじゃ分からないこともある。書を読み解き、文字に触れたとしても生きた人間を相手にしたら其処にある現実を見なければならん。さぁスーリア、頑張れよ」

 そう言った医師は煙草を口に咥え、火を点けると紫煙を吐いた。
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