人として ④

文字数 2,353文字

 皮膚が凍って剥がれ落ち、肉は氷と氷柱によって形成され室内であろうと霜を振らせるに至り、心身ともに冷え切る感覚が青年の思考能力を僅かに……だが確実に奪い取る。

 目の前に立ちはだかる少女は敵だ。敵であるのなら殺さねばならない。この町で己が悪を知り、罪の責を問う存在は何であろうと消さねばならぬのだ。それに老若男女もあるものか。己は人魔闘争の……同族殺しの制約を無視できる力を手に入れた。故に、誰であろうと阻める筈が無い。

 「先ずは……お前か? 女ぁ」

 滾る魔力が渦を成し、蒼い槍を形成すると周囲を凍らせ霜を張る。エルストレスの得物を視認したミーシャは素早い身の熟しで彼の懐に潜り込み、メイスを叩き付けるがその刹那に鋼が凍り、砕け散る。

 「無駄だぁ!!」

 「……」

 先が無くなったメイスを投げ捨て、術を編むミーシャへ蒼の槍が迫り、間一髪で泥の障壁を展開し、防ぐことに成功する。だが、泥の障壁もまた凍り、砕け崩れた。

 指先が悴み、耳が痛い程冷えていた。頬の感覚が喪失し、血も凍ってしまうと錯覚する冷気の中、少女の内で燃える闘志は恐怖や怖気と云った身震を無理矢理捩じ伏せる。

 此処で逃げてもいい。尻尾を巻いて逃げ出して、己の任を果たせば誰も文句は言わないだろう。脅威と対峙し、格上となった敵に背を向けることは恥ではないのだから。

 しかし、此処で逃げ出して何かが変わるのか? ダノフが示した覚悟と勇気を無意味にしてもいいのだろうか? 人は変われると説き、己が命を差し出してまで贖罪の意思を貫いた老人を……最期の輝きを見せた英雄

の屍を、強大な悪に変貌したエルストレスの前に置いて逃げることなど出来る筈が無い。

 泥が呪いを伝播し、呪縛が霜を這って杭を打つ。どろりとしたタール状の粘液がミーシャの鎧の隙間から垂れ落ち、少女の意思を力に変えるとエルストレスが放出する冷気を僅かに遮断した。

 「小賢しいな……全て無意味なんだよ女。全部消えてしまえばいい……。壊して、殺して、凍らせて……その後に残った命を使って僕はやり直す。次は失敗しない。間違いを……僕が成す罪悪こそが正しかったと証明してみせる!!」

 「……貴男は自分が正しいと信じているつもりですかぁ?」

 「当たり前だ!! 周りが間違っていたんだよ!! 僕は、僕が成すことは全て正しかった!! 間違いなんて在る筈が無い!!」

 「……ダノフさんの言葉と行動が無意味だったとでも言うつもりですかぁ?」

 「ハッ!! あんな死にぞこないの爺の言葉なんて意味があるものか!! いいか女ぁ!! 他人ってのは自分の欲望を満たす為だけに存在している道具なんだよ!!  それに気づかなきゃぁ、一生誰かに利用される惨めで愚かな苦痛だけが残るんだ!! そうだろう!?」

 「……」

 エルストレスの言葉は正しいのかもしれない。どれだけ捻じれ、歪んでいようとも人は己の欲望を満たす為に他人と関りを持つ存在だ。己に課した、心が掲げた意思と誓約も利己的な想いか他人の為であるか否かなのだから……彼の叫びに同意してしまう自分が居るのもまた確か。

 「それでも」

 凍った障壁が崩壊し、身を貫き寒気が少女を襲い。

 「命を賭けて誰かを変えたいと、命を捧げてまで町を救いたいと願ったダノフさんの心は……美しかった。それが綺麗で、羨ましくて、妬ましかったとしても、私は彼の想いを踏み躙ることは出来なかった」

 ミーシャの纏う鎧の装甲が罅割れ、泥が溢れ出し、幾本もの杭を形成させ。

 「エルストレス……貴男の言っていることは正しいのかもしれない!! だけど、其処にある意思が捻じれて曲がってしまえば意味そのものが変わってしまう!! 私は貴男を認めない!! 貴男が成そうとしている正しさを、否定する!!」

 「黙って死ね!! 女ぁあ!!」

 圧倒的な

を持つ蒼い槍へ撃ち放つ。

 自分が正しいかなど分からない。心が指し示す道程も、意思が辿る足跡が願いを叶える奇跡を成すとも限らない。だが、目の前の悪を否定しなければならないと、少女の魂が叫んだ。誰かの為に行動した者……ダノフの死を無意味なものにしてはならないと。

 魔力が凍り、消え果てる。身体の中から凍ってしまうような冷気が杭を伝って粘液に薄氷を張り、泥を冷え固まらせる。

 相性が悪いと云えば敗北の理由になるだろう。エルストレスが予想外の力を発現し、異形となったと話せばイエレザは分かってくれる。此処が己の限界だと悟り、力尽きて倒れてしまっても仕方が無い。

 「―――」

 誰か一人の為に命を張り、身を削って戦うなど馬鹿らしいとミーシャの耳元でもう一人の己が……瞳に刻印を刻まれた襤褸を纏う少女が嘯いた。


 お前の力の源は羨望と嫉妬、憎悪と憤怒だ。それを投げ捨て、どうやって生き残る。生き残った先に幸福が無いことを知っていて、何故抗う。

 いつも通り逃げてしまえばいい。面倒そうな素振りを見せ、適当に誤魔化して生きればいい。自分達はそうやって生き残ってきたじゃないか。気に入らないものを叩き潰し、恵まれている者から奪う人生。それが貴女でしょう? ミーシャ。


 そうだ。逃げて、逃げ続けて、自分では無理だと思い込んで抗わなかったからこそ今の己が在る。無いから誇れず、奪われた故に奪う。背後から迫る闇に怯え、自由を奪われる恐怖に抗えずにいた。だから、己は―――。

 「それでも―――」

 ミーシャの瞳に意思の炎が燃え上がり、食い縛った歯が絶望を噛み砕き。

 「私だって、変われるんだ!! あの人が、アインさんに追いつけるような、ダノフさんの意思を無意味にしない私に変われる!! 私はもう―――逃げない!! 諦めたりするものか!! 私は―――もう自由なんだ!!」

 泥の中から一本の剣を引き抜いた。
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