蕾は芽吹く ③

文字数 2,593文字

 「先生、もうそろそろ診察を終えても宜しい頃かと」

 「ああ、あと一人……いや、二人診たら終わりにするか。スーリア、患者のカルテは纏めたか?」

 「カルテは随時纏めています。……本当にあと一人か二人診たら終わりにして下さいね? 先程から同じことを申しておりますが」

 束となったカルテを書に纏め、医療鞄に押し込んだスーリアは疲労を浮かべながらも笑顔を絶やさずに診察を続けるトーランスを見やり、金品或いは食材が詰まった小箱を両腕に抱える。

 「スーリア、この症例だが」

 「眼球に僅かな濁りが見られますね。白内障の初期症状かと」

 「正解だ。婆さん、白内障手術は診療所まで来てくれないか? 野外でオペをするには感染予防の側面で出来ないんだ。手術が怖いなら、癒し手を頼ってもいい。選択はアンタに任せるよ」

 「そうだねぇ……先生、白内障ってのは何だい?」

 「命に関わるような病じゃないが、視力の低下と失明を招く危険性があるのは理解して欲しい。大丈夫だ、手術をしたら進行は止まる病だから恐れる必要は無い。それと、診療所に訪れる際は家族を連れて来てくれよ? 俺には家族に説明する義務があるからな」

 「そうかい……家に帰ったら倅と嫁に相談してみようかねぇ。ありがとねぇトーランス先生……先生が居なかったらこれから産まれる孫の顔を見れなかったかもしれないし……。それと、若い女医先生もありがとね」
 
 「いえ、私はそんな感謝されるようなことは」

 「それでもさ。ワグ・リゥスにもっと医者様が増えてくれたらいいんだけど、王族の方は何を考えていることやら……。アニエス様もアトラーシャ王女も、下々の民なんてどうでもいいと思ってるのかねぇ」

 「……彼女は、アトラーシャはそんな風に思っていないと思いますが」

 老婆に聞こえぬよう、そっと呟いたスーリアは軽く頭を振り、カルテに老婆の症状と情報を書き込む。

 「そういう愚痴なら他でやりな婆さん。王族の愚痴を話すぐらいなら、自分の身をもっと大事にしてくれよ?」

 「はいはい。それじゃぁ少ないけど、これを」

 麻袋から取り出した三枚の銅貨を箱に入れた老婆は申し訳なさそうに木箱から立ち上がり、人混みを割って入って来た若い女性の肩を借りる。

 「婆さん」

 「何だい? 先生」

 「今日食べるものはあるのかい?」

 「あるよ」

 「……其処の若いお嬢さん、婆さんの身内なら箱から溢れ出そうな食べ物を幾つか持って行ってくれないか? 俺一人じゃこんなに食べられないからさ」

 「え? い、いいえ、悪いですよ。先生だって生活がありますし、私達なら少しで足りますから……」

 「胎の中に赤ん坊がいるんだろ? 妊婦ってのは栄養を摂らなきゃ駄目だ。代金は要らないし、遠慮しようってんならそうだな……婆さんと一緒に君も診療所に来てくれ。金は気持ちだけで十分だし、来る頻度も週に一回で構わない。俺が求める対価はそれで十分だ」

 籠に食材を詰め込み、老婆から貰った銅貨三枚を底へ潜り込ませたトーランスは女へ籠を手渡し「相談事なら聞くし、対策も考える。けど、一番に考えて欲しいのは君の胎に居る赤ん坊と自分自身の事だ」彼女の肩を優しく叩いた。

 「先生」

 「どうした? スーリア」

 「あまり患者へ物をあげない方が宜しいかと。人には善意につけ込もうとする輩が一定数いらっしゃいます。それに、彼女の旦那さんが邪推する可能性も」

 「その時はその時だ。話し合い解決できるなら話し合うし、殴り合わなきゃならん場合は殴り合う。スーリア、君は俺みたいな医者にはなるなよ? 身を削って奉仕するなんざ馬鹿のすることだからな」

 「……先生の言うことは理解出来ますが、私が言いたいのは」

 「分かってる。分かってるから、君に言ってるんだ。俺がしていることは単なる自己満足で、偽善者のようなもの。俺の生き方はこれでいい。俺が目指すべき医者って存在が間違っていたとしても、これが正しいと信じている。スーリア、知識と技術ってのは伝えてこそ意味があるし、誰かに模倣されるなら万々歳だろう?」

 「それは……甘さです。優しいんじゃない、先生は他人に甘いだけですよ」

 そうかもな。それだけ呟いたトーランスは煙草を口に咥え、火を点けると薄い紫煙を吐き出す。

 「先生、煙草は毒です。あまり良い物ではありません」

 「癖なんだ、許せ。……煙草は臭いが強いし、服に残り香が付く。だけど、それが嫌な臭いを一瞬でも消してくれることがあるんだよ」

 「それは……軍医だった頃の話ですか?」

 「……ああ」

 次の患者が来る前に店仕舞いにするか。椅子代わりの木箱を広場の露天商へ返却しようとしたトーランスの視界の隅に一人の男が映る。黒いボディアーマーと黒いロングコートを着込んだ漆黒の男……彼の歩き方と血色の悪いコケた顔を見たトーランスは男へ歩み寄る。

 「何用か」

 「すまん、俺の名前はトーランス。このワグ・リゥスで医者をやっている者だ。少し時間を貰ってもいいか?」

 「医者が我に何用か」

 「……少しでいい。その服装と天秤の紋章から察するに、貴男は断罪者だろう? 命に関わる事だ。駄目なら無理矢理にでも診る」

 「不要だ。命に関わることだと? 我の身体は我が一番よく理解している。我は罪人を裁かねばならんのだ。医者の手で診られる必要は無い」

 「重度の魔力欠乏症と魔力混合病を併発している可能性がある。魔力欠乏症なら珍しい症状じゃ無いが、魔力混合病を併発して生存した症例は存在しない。貴男のような病人を見過ごすわけにはいかないんだ」

 断罪者の腕を掴んだトーランスの手に力がこもり、彼の汚濁を思わせる黒々とした瞳を睨む。

 「……貴様、一体何者だ?」

 「ただの町医者だ」

 「町医者が魔力欠乏症と魔力混合病を一目で見抜ける筈があるまい。それこそ戦場に居た場合なら、話は別だが」

 「正確な病名をハッキリと言えばいいのか? 貴男は魔血症に冒されているんだ。大人しく俺の診察と治療を受けろ。そうじゃないと本当に死ぬぞ」
 
 両者に緊張が奔り、今にも剣を抜きそうな雰囲気を漂わせる中でスーリアが診察の準備を終え、二人の間に割って入ると。

 「断罪者。トーランス先生は腕の良い医師です。一度で構いません。診察を受ける価値は十分にあるかと」

 彼女が隠し持っていた体幹拘束用魔導具が発動し、断罪者の動きを封じ込めた。

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