濁流 ②

文字数 2,058文字

 斬り、潰し、叩き殺す。

 焼き、突き刺し、射抜き殺す。

 ゲブラーへ向けられる攻撃を身を以て受け止め、返し刃で熊を両断したアインの姿は常軌を逸脱したモノとなっていた。

 元々黒色で統一されていた鎧は熊から噴出するタールのような血で関節部位の繋ぎ目が分からなくなる程黒に染まり、黒鋼の仮面で覆い隠された顔は夜空に浮かぶ赤い月を思わせる真紅の瞳だけが彼の表情を物語る。

 殺せば殺すだけ数が増え、荒廃した森を駆けながら戦おうとも倍々にして増える熊をたった一人と一頭で相手するには不可能だと思えた。現に、優先攻撃対象であるアインの身体は既に右腕と左脚を砕かれ、脇腹を抉られている状態。ゲブラーもアインが攻撃を肩代わりしてるとは云え、大なり小なり傷を負っていた為風のように駆ける俊足も鈍化し始めていた。

 己は未だいい。受けた肉体の損傷は鎧から伸びる影が修復し、狂死する程の激痛を代償に治癒している。だが、問題はゲブラーだ。彼の脚がアインの命綱であることは変わりなく、もし一瞬でも止まってしまえば熊の爪牙は容赦無く剣士へ致命傷を与えた後、ゲブラーを仕留めに掛かるだろう。

 時間との勝負に変わりは無い。いや、持久戦の根気比べならばアイン一人に分があった。しかし、ゲブラーを庇いながらの戦闘は徐々に剣士自体の精神を摩耗させ、鎧が与える激痛がアインの思考を狂わせる。

 死の気配が直ぐ近くにまで迫っていた。

 どうしようもない焦燥感がアインの剣筋を乱し、振るう先を僅かに逸らす。

 懸命に抗おうとも無慈悲な暴力は一人の意思を叩き潰すには十分で、純粋な殺意は心を持たぬ理不尽な刃と化す。ほんの少しの瞬きさえも命取りとなる戦況は次第に鎧による回復を凌駕し、肉体の修復が追い付かなくなる程の傷を与えていた。

 「……まだか」

 一言、そう呟いたアインの修復された右腕が噛み砕かれ、飛び散った血が口腔内に入り込む。

 もうどれくらい戦っているのか、剣を振るっているのか、分からない。長い時間戦っているのかもしれないし、ひょっとしたら五分程度なのかもしれない。血の味を噛み締め、飲み込んだアインの剣が一振りで熊三頭を叩き斬り、反撃で胴体に穴を穿かれる。

 意識が飛び掛け、激痛によって無理矢理光を掴み出す。この攻防を越えた先……目的の敵を、大熊を討つまで死ぬことは許されない。守る為に戦っているのだ。守り切れず……サレナのように死なせることは許さない。大量の血を吐き出し、肩で息を繰り返す剣士は鋭い犬歯を覗かせ唸る。

 「―――さん」

 襟首から声が聞こえた。己の名を呼ぶ声……ミーシャの声がアインの鼓膜を叩く。

 「アインさん、聞こえてますかぁ? あぁ返事は結構ですぅ。どうせ此方には聞こえていませんからねぇ。準備が整いましたのでぇ術を発動します」

 「……頼む。ミーシャ、俺の声が聞こえていないだろうが、言っておく」

 「術を発動したら後は大熊を殺すだけですぅ。あ、イエレザ様から何かありますかぁ? この通信を切ったらアインさんの魔導具は効果を失っちゃいますけどぉ」

 「後は頼む……。俺は、森の化け物を、大熊を」

 「アイン様、此処からが本番です」

 「……」

 生唾を飲み込み、渇いた血がへばりついた籠手に包まれた手を握る。

 「大熊へ近づけば近づく程、貴男様は更なる苦難に襲われます。時間稼ぎが無理だと判断したら、もう無理だと確信したら、迷わず逃げて下さい。逃げるのは恥ではありません。これは仕方なかったと折り合いをつけることも必要でしょう」

 「……それは、無理だ」

 「アイン様のことです。今も無理だと話されている。そうでしょう? しかし、貴男が生きて、帰って来ることにも意味があるのです」

 「……生きて、か」

 アインの声はミーシャとイエレザには届かない。一方的な通信機能しか持たない通信用魔導具は必要最低限の役目を果たしているだけに過ぎず、会話を主な目的にして作られていないのだから。

 だが、それでも、アインは苦笑しながら口を開く。

 「安心しろ。俺は必ず生きて帰る。それまで、メアリー達のことを頼む。ミーシャ、イエレザ、後は任せた」

 「ご武運をアイン様」

 「頑張って下さいねぇアインさん。もし帰って来たら美味しい物でも食べましょう?」

 「……ああ」

 一人じゃない。この狂った戦場に立ち、一人と一頭で戦っていようとも、己には仲間が居る。後ろを守る者が居る。だから……戦える。

 使い捨ての通信用魔導具が砕けると共に、アインとゲブラーを八つ裂きにしようとしていた熊の軍勢が突如として領域の外へ駆け出した。まるで別の獲物を見つけたように、全速力で散った熊達を見たアインはミーシャの術が発動したことを察する。

 「此処からが……本番か」

 行こう。そう呟いたアインの声がゲブラーの脚を進ませる。朽ちた森の奥……強大な殺意を発する存在へ立ち向かう。

 「罪と向き合い……自我を守れ。そうだったな、イエレザ」

 鮮血の色に染まる空の下、剣にこびりついた血を振り払ったアインは一人頷くのだった。
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