第1話 はじまりと 賢者の愚行

文字数 1,235文字

 泣かなくて良いのに……。
「ああ、そんなに泣かないで」
 声は、かすれて出ない。祈りだけでも、届いただろうか。
 慰めたいのに……。もう、力が入らない。


 お昼前の大衆食堂。
 まだ、お客さんが多い時間帯では無く、まばらに座って食事をしていた。
 いつもののどかな風景のハズだった。

 そんな、日常の静寂を破る、怒号と悲鳴が聞こえる。
 血だらけの私の顔に、ぼたぼたと水滴が落ちてるのがわかる。
 私の身体を必死で抱きしめ、大粒の涙を流しているのが、かすんだ目に映る。暖かいふくよかな身体に抱きしめられたまま、私の意識は途切れかけていた。
 周りの喧噪(けんそう)もだんだん遠くなっていく。
 意識は遠のいていくのに、魂は昔に戻っていくようだった……。





 ハーボルト王国は、豊かな自然に恵まれた国だ。
 前方には豊かな海、後方には要塞のような山脈に囲まれ、他国が攻めにくい地形をしている。
 その地形を創り、活かし、長年にわたって人々に知恵を授けてきた賢者。
 国王陛下ですら、賢者には忠誠を誓う。
 この国において、絶対的な存在。
 ()の君は、もう千年以上この地を護り、すでに人の身の時の名など覚えてもなかった。

 今は、平和な時代なのだろう。
 定期的に国王が、国の様子を報告に来るだけとなっている。

 大きな戦乱が終結した後は、凪のようなこんな平和が続くことがある。
 のんびりした時代は、人間には良いことなのだろうが、賢者にとっては退屈なだけだ。
 だからといって、わざわざ戦乱を呼び寄せたりはしないが……。

 賢者は普段、王宮の奥深くにいる。
 謁見の間の更に奥深くの廊下の奥に、賢者の間がある。
 何もないときは、扉が開かないので、開かずの間とも言われている。
 賢者の間にある水晶には、普段は王都の様子が映っている。
 
 この時も水晶が映し出す光景を、退屈しのぎに、のんびりと見ていた。
 本当に退屈しきっていたのだ。退屈すぎて、気まぐれを起こしただけだ。
 平和になった王都に降りてみようなどと。
 ほんの少しなら、私の正体など知らぬ外部の人間と接触しても、何の影響も無いだろう、と。
「さて、どうしたものかな」
 転移するのに、人に見られてはダメだろう。
 賢者は下町の人の姿を模した分身を使って、小さな家を借りた。

 賢者の外見は、せいぜい10代後半から20代前半。
 戦乱の世にでもなれば、戦況によっては賢者も戦地に赴くこともある。
 司令塔は真っ先に狙われることもあるので、身軽に動ける外見に超したことはないのだ。

 王宮の外。下町に出るとなると、普段着ている……、いかにも賢者様って感じのズルズル引きずるような服では目立ちすぎる。
 水晶を見ながら、ズボンとシャツ、上着を錬成する。金色の髪の毛も短く……。
 少し外見年齢が下がった気がするが。
 まぁ、10代後半くらいには、見えるからいいとしよう。
 王都でも下町をウロウロするのなら、こんな感じで良いだろう。
 さっそく、転移魔法を使う。がらにも無く、少しワクワクしてたかも知れない。
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