第31話 世界の中心の名前
文字数 1,262文字
「びびったよな。お前知ってた? お父さんの担当が俺の母親だって」
外のベンチに腰掛けるなり、トーマは言った。
軽さを装った笑顔が痛々しい。
俺は小さく首を振る。
「医者は守秘義務があるから、家族にもそういう話はしない」
病院を出て呼吸は楽になったはずなのに、ずっと胸が苦しかった。
「……これでまたしばらくは面会謝絶かな」
「また?」
「ああいうの、よくあるんだ。元々不安定な人だったから。こっち帰ったら少しはよくなると思ったんだけどな」
「お前のことが分からなくなることも、よくあるのか?」
「いや、あれは初めて。……ちょっと、ショックだったわ」
トーマは空虚な視線を宙に投げた。
ぬるい風が木々の葉を揺らす。
ちょろちょろと力ない噴水を、しばらく二人して見つめていた。
「俺、生まれてこなければよかったのかな」
ぽつり、とトーマが言った。
胸の空白をなぞられたようで、喉が詰まった。
「……俺は妹を亡くしてる。だから、そういう問い自体が好きじゃない」
細く長く溜息をつく。
『今、生きてる。それが全て』
……そう言い切れたらどんなにいいか。
でも、俺達はそんなにシンプルには生きられない。
トーマは唇を噛み、やがて喉から絞り出すように低い声で言った。
「俺のせいなんだよ。俺を生んで、あの人はおかしくなった」
「……そうなのか?本当に?」
俺は眉を顰 める。
「
トーマは足元の煉瓦 を見つめたまま呟いた。
深刻な口調は、比喩を超えている気がした。
「お前、おかしいぞ。気をしっかり持てよ。大体、
捲 し立てる俺を、トーマは諦観 の目で見た。
瞳から、光が消えかけていた。
「……やっぱり、お前も知らないよな」
「教えろ。それは何語だ? どんな意味がある」
俺が詰め寄ると、
銀、盤。
アイフォンで入力して、画面を見せた。
「世界の中心の名前さ。けど、誰もそれを知らないんだ。……お前も、明日には忘れる」
俺はすぐにスマホを取り出し、その馴染みの無い単語を検索した。
銀と盤の字を拾って、中国語のサイトが大量に引っかかった。
読めそうなものは一つも無かった。
……銀色の、盤。
皿や盆じゃなくて。
将棋や囲碁を盤上の闘いと呼ぶ。
それと関係があるのだろうか。
スケートとも?
……そんなことより。
俺は面を上げてトーマの虚ろな横顔を見た。
お前こそ、知らないのか。
今のお前は、入江 瑞紀 の病室にいた金色の蟲 を、群れで引き連れている。
後頭部から足までびっしりと。
取り憑 かれていると言ってもいい。
呑み込まれたら、死ぬぞ。
「……死ぬなよ、トーマ。もう一度生まれなくちゃならないんだろ」
「生きろと言うなら、その名前を覚えていてくれ」
託すように呟いて、トーマは立ち去った。
そして、この日を最後にトーマは消えた。
翌朝、スマホの検索履歴が全てリセットされていた。
寝ぼけて操作ミスでもしたかと思ったけど、もう何も思い出せなかった。
外のベンチに腰掛けるなり、トーマは言った。
軽さを装った笑顔が痛々しい。
俺は小さく首を振る。
「医者は守秘義務があるから、家族にもそういう話はしない」
病院を出て呼吸は楽になったはずなのに、ずっと胸が苦しかった。
「……これでまたしばらくは面会謝絶かな」
「また?」
「ああいうの、よくあるんだ。元々不安定な人だったから。こっち帰ったら少しはよくなると思ったんだけどな」
「お前のことが分からなくなることも、よくあるのか?」
「いや、あれは初めて。……ちょっと、ショックだったわ」
トーマは空虚な視線を宙に投げた。
ぬるい風が木々の葉を揺らす。
ちょろちょろと力ない噴水を、しばらく二人して見つめていた。
「俺、生まれてこなければよかったのかな」
ぽつり、とトーマが言った。
胸の空白をなぞられたようで、喉が詰まった。
「……俺は妹を亡くしてる。だから、そういう問い自体が好きじゃない」
細く長く溜息をつく。
『今、生きてる。それが全て』
……そう言い切れたらどんなにいいか。
でも、俺達はそんなにシンプルには生きられない。
トーマは唇を噛み、やがて喉から絞り出すように低い声で言った。
「俺のせいなんだよ。俺を生んで、あの人はおかしくなった」
「……そうなのか?本当に?」
俺は眉を
「
銀盤
の呪いだよ。神に背いた罰だ」トーマは足元の
深刻な口調は、比喩を超えている気がした。
「お前、おかしいぞ。気をしっかり持てよ。大体、
ギンバン
って何だ? お母さんも言ってたな。あのモヤと関係があるのか? 銀なのか? 金じゃなくて?」瞳から、光が消えかけていた。
「……やっぱり、お前も知らないよな」
「教えろ。それは何語だ? どんな意味がある」
俺が詰め寄ると、
銀、盤。
アイフォンで入力して、画面を見せた。
「世界の中心の名前さ。けど、誰もそれを知らないんだ。……お前も、明日には忘れる」
俺はすぐにスマホを取り出し、その馴染みの無い単語を検索した。
銀と盤の字を拾って、中国語のサイトが大量に引っかかった。
読めそうなものは一つも無かった。
……銀色の、盤。
皿や盆じゃなくて。
将棋や囲碁を盤上の闘いと呼ぶ。
それと関係があるのだろうか。
スケートとも?
……そんなことより。
俺は面を上げてトーマの虚ろな横顔を見た。
お前こそ、知らないのか。
今のお前は、
後頭部から足までびっしりと。
取り
呑み込まれたら、死ぬぞ。
「……死ぬなよ、トーマ。もう一度生まれなくちゃならないんだろ」
「生きろと言うなら、その名前を覚えていてくれ」
託すように呟いて、トーマは立ち去った。
そして、この日を最後にトーマは消えた。
翌朝、スマホの検索履歴が全てリセットされていた。
寝ぼけて操作ミスでもしたかと思ったけど、もう何も思い出せなかった。