第7話 身体の呪縛

文字数 1,547文字

 不眠症を発病したのは大学三年の秋だった。

 私の不眠症は、眠りを病むというより夢を病むと言った方が近い。
 繰り返される悪夢に脳が疲弊し、ついには体が眠りを拒む。
 私の悪夢は、いつだって氷上が舞台で、その苦しみは私の身体が元凶だった。

 中三の一年間で、私の身長は10センチも伸びた。
 遅い成長期だった。
 それまでアクセル以外の全てのトリプルジャンプが跳べていた私は、たった一年の間にルッツとフリップを失った。

 よく女子選手は第二次性徴期でバランス感覚が変わり、ジャンプを今まで通りに跳べなくなると言われる。
 私もその一人だった。
 しかしその後、失ったジャンプを再び取り戻すことができるのは、ごく一部に限られる。
 血のにじむような努力を重ねてなお、多くの女の子は涙を呑んで氷上を去る。

 トウループ、サルコウ、ループだけで第一線を戦うのは不可能だった。
 ダブルアクセルも、元々得意な方ではない。
 
 高二で一度だけジュニアグランプリシリーズに参戦し、見事に惨敗した。
 「渋川の妖精」(上毛新聞に載った時の私のキャッチコピーだ)と持て囃された天才少女の面影は、もうどこにも無かった。
 高校の三年間は一度もシード選手に選ばれることがないまま、地方大会を地道に勝ち上がり、全日本ジュニアに出た。
 最高順位は、6位。

 この成績を評価され、私は榛名学院大学体育学科スポーツ科学部に特別推薦で入学した。
 授業料免除の特待生として。


 大学一年でシニアデビューしても、私の成績はふるわなかった。

 はるなリンクを拠点に、特待生として優先的に練習をさせてもらえたにもかかわらず、とうとうループの成功率までが五割を切るようになった。
 ついには練習中に膝を負傷し、手術を受けた。
 今も私の右膝にはボルトが入ったままだ。

 療養期間中に、ヘッドコーチの星先生からアイスダンスへの転向を提案された。
 自分がジャンプで戦えるスケーターではないことを知ってからは、エッジワークを磨くことに身骨を砕いていたので、それをきちんと評価してくれる人がいることが嬉しかった。
 自分にも戦える場所がまだ残されていると思うと活力が湧いてきた。

 私は本格的にアイスダンスに転向した。
 同じ大学で、同じように怪我に悩んでシングルから転向した男子選手とカップルを組み、全日本への切符であるプレゴールドを取得した。

 彼と距離が縮まるのに、それほど時間は掛からなかった。
 ずっとスケート漬けだった私の人生で初めて、そして一度だけできた恋人だ。

 でも、この恋も、私の背の高さが邪魔をした。

 彼の身長は173cm、フィギュアスケーターとしては決して低い方ではない。

 しかし、私の身長は168cm。

 「僕には、君を受け止められない」
 「僕と君では、体が釣り合わない」
 「君にはもっとふさわしいパートナーがいるはずだ」

  ……一度ずれたユニゾンは、二度と元に戻らなかった。

 もっともらしいことを並べ立てられたけれど、要は私は彼に選ばれなかった。
 捨てられたということだ。
 私は絶望に打ち拉がれた。

 彼にはすぐに新しいパートナーが見つかった。
 アイスダンスの男子選手なんて、どこへ行ったって引く手数多だもの。

 でも、私は? 
 私と身長が釣り合うフィギュアスケーターなんて、日本中探したっていやしない。
 じゃあ、海外へ行こうか? 
 言葉も、食事も、生活習慣も、何もかもが違う国で、湯水のようにお金が消えていくスポーツを更に続けるの? 

 両親は、私が高校に進学する時に家を売った。
 私にスケートを続けさせるために。

 闘っていたのは、私だけじゃない。
 これ以上失える物なんて、うちには無かった。

 だから歩みを止めるわけにはいかなかった。
 心を病むなんて、あってはならなかった。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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