第23話 Closer to (Absolute) Zero
文字数 2,269文字
「……ファイト・クラブ。奇遇だな。俺も同じ物を考えていた」
そう言って、岩瀬先生はCDを取り出した。
ピンクの石鹸 のジャケットに、目が釘付けになる。
「本当はな、あの日芝浦と殴り合ったお前の顔を見た時から、これしかないと思っていた」
そんな偶然ってあるか?
呆気 に取られていると、
「元々俺はフィンチャーが好きなんだよ」
先生は少し照れた素振りを見せた。
そこにはいつもの皮肉っぽさは微塵も無かった。
「決まりだ、フリーはファイト・クラブ」
「よろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
胸が温かくなるのを感じた。
エストニアのリンクサイドでほんの一瞬感じた、確かな糸の繋がりが蘇る。
だがそれも束の間、
「前橋にはもう行かなくていいんだよな」
すぐに先生は真顔になった。
俺は躊躇 しながらも頷 く。
じゃあ、と先生は言葉を続ける。
「バレエを辞めろ。その時間を全て氷上練習に費やせ」
俺は目が点になった。
本当にこの人は何から何まで朝霞 先生と言うことが逆だ。
「……バレエのおかげで、ビールマンのポジションを取れるようになったんです。できれば、辞めたくありません」
「スケーティングを犠牲にしてもか?」
射抜くような目で、先生は言った。
「お前、スピンのポジション以前に、スケートそのものの練習が足りてないよ」
足りてない?
部の誰よりも練習時間は多いはずだ。
俺の不満の色を、先生は見過ごさない。
「確かにお前は練習熱心だよ。だが、お前基準では足りていない。……本当は気付いているだろう? 自分が、スケートが苦手だということに」
やはり、見抜かれていた。
動揺ですぐに言葉が出ない。
観念し、深く息を吐いた。
「……正しいですね。俺は、スケートがこの世の何よりも苦手だ」
こんなことを人に告白するのは初めてだった。
あの日、この手は、一番向いていない物を選び取ってしまった。
スケート靴を脱げばいつだって、地に足を付けて歩けることにホッとする。
最も自分の弱さを感じる瞬間。
トーマの言葉が脳を過ぎる。
『だって俺、転んだことなんか無いぜ』
……俺には、これ以上不安定な足場は無いというのに。
「……そうだ。それが、お前と芝浦の差だ。俺と達也の差でもあったが」
自嘲 気味に微笑む先生を見て、性質が似ているのだと思った。
天才の光を睨みつつ、コンプレックスを手放せない。
「例えばな。お前がフリーの四分フルでやることを、芝浦なら二分半でやりきる」
そう言う先生の後ろを、トーマがすり抜けた。
風が頬を切る。
鏡がステルスのようだ。
弾丸のようなスケーティングに、鋼鉄の翼を操るエッジ捌 き。
あいつが最新鋭の戦闘機なら、俺は何世代前の型落ちなのか。
横目で追いながら、それでも、と思う。
「あまり意味のある仮定とは思えません。……あいつは、世界を知らない」
「過去の話だ。お前こそ、世界ジュニア銅が最高のキャリアになるかもしれないぞ。あの時がピークだったと、言いたくないだろう」
胸の傷が疼 いた。
仄 暗い空洞に、振動が響き渡る。
低音の残響。
それは確実に俺の体内を侵食していく。
この空白を抱えたまま、人生が終わる。
確かな物など何一つ手にしないまま。
氷の足場は、一秒毎に溶け落ちていく。
止まった奴から呑み込まれる。
「スケーティングは、全ての基礎だ。お前は今まで前橋のレッスンを優先して、はるなのフットワーク練習を休みがちだっただろう。これからは、全部に出ろ。スケーティングを磨けば、四回転への道もおのずと開かれる」
じゃ、早速。
そう言って岩瀬先生はコートを脱いでベンチに放り投げた。
手を叩く。
「集合。フットワーク練習、始めるぞ」
ばらばらに滑っていた選手達が隊列を組み始める。
高等部スケート部、男女総勢二十人。
岩瀬先生と朝霞先生が先導する。
俺はトーマの真後ろに付いた。
チラチラと目障りなのに、目で追わずにはいられないその姿。
ならばいっそ、全部見てやる。
フットワーク練習は、全員が一斉に同じステップを踏む。
リンクの全面を使ったシンクロスケーティングは壮観だ。
それにしても、俺の目の前には洸一さんとトーマ。
こうして並んで滑っていると、まるで双子のように見える。
体格もほぼ同じ、コンパルを通してスケーティングも似てきた。
それこそ、俺と汐音なんかよりもずっと……。
「霧崎、遅れてるぞ」
岩瀬先生の鋭い声が飛んできた。
慌てて鏡を見る。
俺だけ、ワンテンポ遅れていた。
「洵君。フリーレッグ伸ばして」
今度は、朝霞先生。
再び鏡。
俺の脚だけ、分かりやすく曲がっていた。
全日本ジュニア二位、世界ジュニア三位。
この実績は部内一。
だが紛れもなく、俺のスケーティングが一番のろく、エッジが浅い。
鏡を睨 め付け、ここまで下手だったかと問い詰める。
くそ、ターンがまた遅れた。
挽回 しようと動きを早める。
すると今度は体重移動がうまく行かず、上半身がぐらつく。
鏡には、見たくないものばかりが映る。
小さな瑕疵 から浮き彫りになっていく。
目の前のというより、鏡の中のトーマは涼しげな表情でステップを踏んでいる。
エッジを深く傾けても、体軸がぶれていないことが鏡越しでも分かる。
……いや、鏡越しだから分かるのか?
俺は鏡像に焦点を合わせ、自分の残像をトーマに重ねていく。
自分を見るのでも、トーマを目で追うのでもなく、ブレたように重なる二つの像の、ズレをゼロへと近付けるように。
そして、ついには一つになったイメージを、呼吸とともに肉体へと回収する。
そう言って、岩瀬先生はCDを取り出した。
ピンクの
「本当はな、あの日芝浦と殴り合ったお前の顔を見た時から、これしかないと思っていた」
そんな偶然ってあるか?
「元々俺はフィンチャーが好きなんだよ」
先生は少し照れた素振りを見せた。
そこにはいつもの皮肉っぽさは微塵も無かった。
「決まりだ、フリーはファイト・クラブ」
「よろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
胸が温かくなるのを感じた。
エストニアのリンクサイドでほんの一瞬感じた、確かな糸の繋がりが蘇る。
だがそれも束の間、
「前橋にはもう行かなくていいんだよな」
すぐに先生は真顔になった。
俺は
じゃあ、と先生は言葉を続ける。
「バレエを辞めろ。その時間を全て氷上練習に費やせ」
俺は目が点になった。
本当にこの人は何から何まで
「……バレエのおかげで、ビールマンのポジションを取れるようになったんです。できれば、辞めたくありません」
「スケーティングを犠牲にしてもか?」
射抜くような目で、先生は言った。
「お前、スピンのポジション以前に、スケートそのものの練習が足りてないよ」
足りてない?
部の誰よりも練習時間は多いはずだ。
俺の不満の色を、先生は見過ごさない。
「確かにお前は練習熱心だよ。だが、お前基準では足りていない。……本当は気付いているだろう? 自分が、スケートが苦手だということに」
やはり、見抜かれていた。
動揺ですぐに言葉が出ない。
観念し、深く息を吐いた。
「……正しいですね。俺は、スケートがこの世の何よりも苦手だ」
こんなことを人に告白するのは初めてだった。
あの日、この手は、一番向いていない物を選び取ってしまった。
スケート靴を脱げばいつだって、地に足を付けて歩けることにホッとする。
最も自分の弱さを感じる瞬間。
トーマの言葉が脳を過ぎる。
『だって俺、転んだことなんか無いぜ』
……俺には、これ以上不安定な足場は無いというのに。
「……そうだ。それが、お前と芝浦の差だ。俺と達也の差でもあったが」
天才の光を睨みつつ、コンプレックスを手放せない。
「例えばな。お前がフリーの四分フルでやることを、芝浦なら二分半でやりきる」
そう言う先生の後ろを、トーマがすり抜けた。
風が頬を切る。
鏡がステルスのようだ。
弾丸のようなスケーティングに、鋼鉄の翼を操るエッジ
あいつが最新鋭の戦闘機なら、俺は何世代前の型落ちなのか。
横目で追いながら、それでも、と思う。
「あまり意味のある仮定とは思えません。……あいつは、世界を知らない」
「過去の話だ。お前こそ、世界ジュニア銅が最高のキャリアになるかもしれないぞ。あの時がピークだったと、言いたくないだろう」
胸の傷が
低音の残響。
それは確実に俺の体内を侵食していく。
この空白を抱えたまま、人生が終わる。
確かな物など何一つ手にしないまま。
氷の足場は、一秒毎に溶け落ちていく。
止まった奴から呑み込まれる。
「スケーティングは、全ての基礎だ。お前は今まで前橋のレッスンを優先して、はるなのフットワーク練習を休みがちだっただろう。これからは、全部に出ろ。スケーティングを磨けば、四回転への道もおのずと開かれる」
じゃ、早速。
そう言って岩瀬先生はコートを脱いでベンチに放り投げた。
手を叩く。
「集合。フットワーク練習、始めるぞ」
ばらばらに滑っていた選手達が隊列を組み始める。
高等部スケート部、男女総勢二十人。
岩瀬先生と朝霞先生が先導する。
俺はトーマの真後ろに付いた。
チラチラと目障りなのに、目で追わずにはいられないその姿。
ならばいっそ、全部見てやる。
フットワーク練習は、全員が一斉に同じステップを踏む。
リンクの全面を使ったシンクロスケーティングは壮観だ。
それにしても、俺の目の前には洸一さんとトーマ。
こうして並んで滑っていると、まるで双子のように見える。
体格もほぼ同じ、コンパルを通してスケーティングも似てきた。
それこそ、俺と汐音なんかよりもずっと……。
「霧崎、遅れてるぞ」
岩瀬先生の鋭い声が飛んできた。
慌てて鏡を見る。
俺だけ、ワンテンポ遅れていた。
「洵君。フリーレッグ伸ばして」
今度は、朝霞先生。
再び鏡。
俺の脚だけ、分かりやすく曲がっていた。
全日本ジュニア二位、世界ジュニア三位。
この実績は部内一。
だが紛れもなく、俺のスケーティングが一番のろく、エッジが浅い。
鏡を
くそ、ターンがまた遅れた。
すると今度は体重移動がうまく行かず、上半身がぐらつく。
鏡には、見たくないものばかりが映る。
小さな
目の前のというより、鏡の中のトーマは涼しげな表情でステップを踏んでいる。
エッジを深く傾けても、体軸がぶれていないことが鏡越しでも分かる。
……いや、鏡越しだから分かるのか?
俺は鏡像に焦点を合わせ、自分の残像をトーマに重ねていく。
自分を見るのでも、トーマを目で追うのでもなく、ブレたように重なる二つの像の、ズレをゼロへと近付けるように。
そして、ついには一つになったイメージを、呼吸とともに肉体へと回収する。