第6話 Who is it?
文字数 1,725文字
帰国直後はマスコミの取材が重なってほとほと疲れていたが、流石にグランピア前橋の雰囲気はいつも通りだった。
前橋は落ち着く。
どこにでもありそうな地方都市の古いスケートリンク。
俺達は、ここで育った。
「私、今月いっぱいでここの契約社員辞めるの。榛名 でインストラクターやることになったから」
急な朝霞 先生の言葉に、がらがらと何かが崩れ落ちる音が脳内に響き渡った。
先生は俺の驚きを受け止めるように向き合う。
「あっ、もちろんスケートクラブの講師は続けるよ。榛名の方も臨時で雇われるだけだし、要はフリーランスになったってわけ」
「……何か、あったんですか?」
異様に乾いた口で、俺はやっと言葉を発した。
朝霞先生はいつも前橋にいる。
スケートを始めてからずっと当たり前だと思っていたことが、目の前で崩れ去ってゆく。
「まあね。大人には色々あるのよん」
朝霞先生は意味深に笑うと、くるくるとツイズルを回った。
いつも同じ位置で結わえているポニーテールがしなやかな曲線を描く。
その美しい軌道に目を奪われながらも、子供だましの返答ではぐらかされた俺は憮然 としていた。
そのまま手すりに背中を預け、柔らかくステップを踏む朝霞先生を少しの間見つめた。
こんなに晴れやかな先生は初めて見る。
目元や鼻筋にまとっていた憂 いの影は消え、唇は今にも鼻歌を歌い出しそうだ。
「……やだ、私の顔、何か付いてる?」
「いえ。それ、手首。怪我したんですか」
慌てて視線を外して、俺は言う。
「ああ、これ。貸靴 のエッジ研いでた時に怪我したんだけど、治りが遅いのよね」
先生は包帯を巻いた手首を持ち上げ、跡になったらどうしよう、と呟いた。
お大事に、という俺の言葉は、そういえば、と言う先生の声にかき消される。
「洵君がエストニアに行ってる間に、男の子が見学で来たわ。四月から榛名の高等部って言ってた。刀麻 君って子」
「トーマ? 外国人ですか?」
異国じみた響きに、なぜか真っ先にクリスの顔が思い浮かんだ。
「いや、日本人だと思うよ。……あの感じだと榛名のスケート部入るんじゃないかなあ」
「経験者だったんですか?」
「うん、でも靴持ってきてなくて、貸靴で滑ってた」
俺は一瞬で興味を失った。
貸靴で滑るなんて、素人に毛が生えた程度のスケーターに決まっている。
手すりを離し、再び氷に足を踏み出そうとすると、
「不思議な子だったなあ。ダブルアクセル跳んだ時は目ん玉飛び出るかと思った」
耳を疑った。
……貸靴でダブルアクセルだと?
そんなこと、できるわけがない。
朝霞先生は俺をからかっているんだろうか。
冗談ですよね、と言いかけたところで整氷のアナウンスが流れ、先生はひらひらと手を振りながらバックヤードへ滑って行ってしまった。
整氷中、俺はレンタルコーナーで係の人に怪訝 な顔をされながらも26cmの靴を借りた。
そしてそれに履き替えると、整氷が終わるなり誰よりも早くリンクに飛び出した。
とりあえず足慣らしをしようとフォアで滑り出す。
……が、何だこれは。
ひどい。
整氷したてなのに、全然身体がエッジに乗らない。
それどころか、足元がぐらつく。
試しに五周ほど回ってみて、多少は足が慣れてきたのでスピンを回ろうとしたら、回転に入る直前につっかえて転び、派手に尻餅をついてしまった。
「痛 て……」
「洵君、大丈夫?」
声を掛けてきたのは、真人 だった。
はるなリンクは午後は大学の割り当てだったから、こっちに滑りに来たのだろう。
真人はただのスピンで転んだ俺に驚き、そして靴を見て更に目を丸くした。
「それ、貸靴じゃん! 何でそんなの履いてんの? 怪我するからやめなよ!」
「転ぶと痛いんだな……なんか、昔を思い出した」
立ち上がろうとしたら足首がぐらつき、咄嗟 に手をつく。
「何言ってんの? ほら、また転ぶよ、掴まって。いったん出よう」
俺は差し出された手を取って立ち上がった。
「真人。お前、貸靴でダブルアクセル跳べる?」
「……洵君、頭打った?」
真人は俺の質問をまともに取り合わないようだった。
朝霞先生が俺に嘘をついたとは思えない。
……でも、そんな奴、本当に存在するのか?
疑問は募るばかりだった。
前橋は落ち着く。
どこにでもありそうな地方都市の古いスケートリンク。
俺達は、ここで育った。
「私、今月いっぱいでここの契約社員辞めるの。
急な
先生は俺の驚きを受け止めるように向き合う。
「あっ、もちろんスケートクラブの講師は続けるよ。榛名の方も臨時で雇われるだけだし、要はフリーランスになったってわけ」
「……何か、あったんですか?」
異様に乾いた口で、俺はやっと言葉を発した。
朝霞先生はいつも前橋にいる。
スケートを始めてからずっと当たり前だと思っていたことが、目の前で崩れ去ってゆく。
「まあね。大人には色々あるのよん」
朝霞先生は意味深に笑うと、くるくるとツイズルを回った。
いつも同じ位置で結わえているポニーテールがしなやかな曲線を描く。
その美しい軌道に目を奪われながらも、子供だましの返答ではぐらかされた俺は
そのまま手すりに背中を預け、柔らかくステップを踏む朝霞先生を少しの間見つめた。
こんなに晴れやかな先生は初めて見る。
目元や鼻筋にまとっていた
「……やだ、私の顔、何か付いてる?」
「いえ。それ、手首。怪我したんですか」
慌てて視線を外して、俺は言う。
「ああ、これ。
先生は包帯を巻いた手首を持ち上げ、跡になったらどうしよう、と呟いた。
お大事に、という俺の言葉は、そういえば、と言う先生の声にかき消される。
「洵君がエストニアに行ってる間に、男の子が見学で来たわ。四月から榛名の高等部って言ってた。
「トーマ? 外国人ですか?」
異国じみた響きに、なぜか真っ先にクリスの顔が思い浮かんだ。
「いや、日本人だと思うよ。……あの感じだと榛名のスケート部入るんじゃないかなあ」
「経験者だったんですか?」
「うん、でも靴持ってきてなくて、貸靴で滑ってた」
俺は一瞬で興味を失った。
貸靴で滑るなんて、素人に毛が生えた程度のスケーターに決まっている。
手すりを離し、再び氷に足を踏み出そうとすると、
「不思議な子だったなあ。ダブルアクセル跳んだ時は目ん玉飛び出るかと思った」
耳を疑った。
……貸靴でダブルアクセルだと?
そんなこと、できるわけがない。
朝霞先生は俺をからかっているんだろうか。
冗談ですよね、と言いかけたところで整氷のアナウンスが流れ、先生はひらひらと手を振りながらバックヤードへ滑って行ってしまった。
整氷中、俺はレンタルコーナーで係の人に
そしてそれに履き替えると、整氷が終わるなり誰よりも早くリンクに飛び出した。
とりあえず足慣らしをしようとフォアで滑り出す。
……が、何だこれは。
ひどい。
整氷したてなのに、全然身体がエッジに乗らない。
それどころか、足元がぐらつく。
試しに五周ほど回ってみて、多少は足が慣れてきたのでスピンを回ろうとしたら、回転に入る直前につっかえて転び、派手に尻餅をついてしまった。
「
「洵君、大丈夫?」
声を掛けてきたのは、
はるなリンクは午後は大学の割り当てだったから、こっちに滑りに来たのだろう。
真人はただのスピンで転んだ俺に驚き、そして靴を見て更に目を丸くした。
「それ、貸靴じゃん! 何でそんなの履いてんの? 怪我するからやめなよ!」
「転ぶと痛いんだな……なんか、昔を思い出した」
立ち上がろうとしたら足首がぐらつき、
「何言ってんの? ほら、また転ぶよ、掴まって。いったん出よう」
俺は差し出された手を取って立ち上がった。
「真人。お前、貸靴でダブルアクセル跳べる?」
「……洵君、頭打った?」
真人は俺の質問をまともに取り合わないようだった。
朝霞先生が俺に嘘をついたとは思えない。
……でも、そんな奴、本当に存在するのか?
疑問は募るばかりだった。