第5話 死者の夢

文字数 962文字

 大きな瞳が目の前にあって、俺は飛び起きた。

 全身に脂汗をかいている。
 肩で息をしながら、ぼうっとした視界の中、必死に日常の欠片を探したが、目の前にはどこまでも薄緑色の布団があるだけだった。
 枕元を手で探り、眼鏡を掛ける。
 白抜きの唐草模様。この布団ってこんな柄だったのか。
 俺は少しだけ冷静さを取り戻し、息を吐いた。


 夢の中の溝口さんは、怖かった。
 終始浮かべる微笑には、この世ならざる者の不気味さがあった。
 本来、あんな人ではなかったはずだ。

 昔、俺はアルソックアリーナの全日本選手権でフラワーボーイを務め、彼に直接花を渡したことがある。
 その甘いマスクには女性ファンが多く、演技後は大量の真っ赤な薔薇が投げ込まれるのだ。
 たちまち両手が塞がってしまった俺を見て、溝口さんは
 「持ちきれないでしょ」
 と何本か薔薇を抜き取り、ウインクを投げた。
 肩肘張らない為人が窺えた。
 八歳も年下の少年を、タチの悪いオカルトで脅すような人には到底思えない。

 だが、事実誰もが知っての通り、溝口さんはソチ五輪で、伝説と語り継がれる圧巻の演技を披露し、金メダルを取った。
 「預言」は当たったのだ。

 ……じゃあ、芝浦刀麻は? 
 俺は死者の夢を見たのだろうか。
 そもそも、芝浦刀麻なんて少年は、本当に存在したのか。
 あの後、俺は彼に何か声を掛けたか? 
 どうやって別れた? 
 思い出せないことが沢山ある。

 とにかく気を確かに持たなければ。
 ベッドから出て、洗面所の鏡の前に立つ。
 眼鏡を外すと再び視界はぼやけた。
 輪郭が曖昧な俺の顔。少しでもはっきりさせたくて、目を凝らして鏡に寄る。
 視界と同じくらいぼんやりした顔が、網膜に映る。
 ……俺って、こんな顔だったか? 
 怪我をしてから、俺は自分がどんな顔をしているのか分からなくなった。

 彰と話せたら、と思う。
 どこまでが夢でどこからが現実なのかを確かめたくて。
 だが、彰の連絡先はいつの間にかLINEから削除されていて、今はどうしているのか分からない。

 ……彰。
 芝浦刀麻を覚えているか。

 いや、そうじゃない。本当に聞きたいのは、そんなことじゃない。

 君は、今、どこで、何をしている。
 脚は、スケートは、どうなったんだ。

 ……俺は。
 氷の声にいくら耳を傾けても、俺は世界から遮断されたままだ。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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