第11話 STEP IN THE DAY(前)

文字数 1,132文字

 前にも一度だけ、シバちゃんがあんな顔を見せたことがある。

 あれは小五の夏休み。
 久々の氷上練習で運動公園のアリーナにスポ少で行った時。
 僕は狭い屋内リンクでも氷に乗れることが嬉しくて、朝からワクワクしていた。

 けれど、いつもなら真っ先にリンクに飛び出していくはずのシバちゃんが、この日は荷物も下ろさず、リンクサイドで固い表情のままじっと立ちつくしていた。

「刀麻、何をしているんだ、早く靴を履け」
 監督が言っても、シバちゃんは頑として動かなかった。

「嫌だ。氷には乗りたくない」
 キッとリンクを睨み付けた。

「……瑞紀に言われたからか?」
 監督はいつになく厳しい顔でシバちゃんに向き合う。

「滑りたい時だけ滑って、嫌なら逃げるなんてダメだ。今ここで逃げたら、この先ずっと逃げ続けることになるぞ。早く靴を履け」

 途端にシバちゃんの顔が泣き出しそうなほど歪んだ。
「……なして? なして父さん急にそんなこと言うの? 今までは好きにしろって言ってくれてたでしょ」

「今までがおかしかったんだ。俺はもうお前を甘やかすことはしない。それから、練習中は俺のことは監督と呼べ」

 シバちゃんはしばらく黙っていたが、急にリンクに背を向け、早足で出口へと歩き出した。

「どこへ行く? 第二へ行っても無駄だぞ。今日は瑞紀は釧路で泊まり込みだ」

「じゃあ釧路に行く! 俺もうスピードやめる!」
 シバちゃんの声がアリーナに響いた。

「……そんなことは許さない。言ったよな? 嫌なら逃げるなんて許さないって。……俺は、瑞紀とは違うぞ」

「やめろとかやめるなとか、うるさい! みんなみんな、うるさいんだよ! 誰も俺のことを知らないくせに! 父さんなんか大嫌いだ! 分かってくれるのは母さんだけだ!」

 激昂して叫ぶシバちゃんに監督はつかつかと詰め寄り、乱暴に腕を掴もうとした。

「待って!」
 僕は咄嗟に駆け寄って、二人の間に割って入った。

 ギロ、と見下ろされて僕はゴクリと唾を飲んだ。

 いつも優しい監督からは想像もつかないほど怖い目をしていた。
 大人にあんな怖い表情を向けられたのは、後にも先にもこの時だけだ。

 けれど、僕はどうしても引くことはできなかった。

「待ってください、監督。……僕、ちょっとシバちゃんと話します。少しだけ時間をください」
 僕は監督の目を真っ直ぐ見て言った。
 驚くほど冷静に話せている自分に驚きながら。

 青ざめるほどの怒りは既に消え、監督は短く息を吐いた。

「……五分やる。刀麻、お前は頭を冷やせ」

 監督はリンクに上がり、何事かと注目していた子たちに向かって、始めるぞ、と言った。
 皆は慌てて隊列を組み始めた。

「シバちゃん、あっちに行こう」
 僕はロッカーの陰になっている隅っこのベンチを指差した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み