第8話 刹那のDTF

文字数 1,106文字

「えっ、なんだこれ」

 休憩中に唐突にシバちゃんが呟いた。
 ベンチに座って、タイムを記録したノートを顰め面で見ている。

「オギちゃん、俺昨日ほんとにこんな遅かった?」
 僕が覗き込むと、シバちゃんは昨日の1000mの計測記録を指差した。

「うん、この二本目覚えてるよ、僕一緒に滑ったから。シバちゃん最終コーナーの入りでバランス崩したでしょ」

 僕はあの時、ほんの一瞬だけ、もしかしたらシバちゃんを抜けるかもと思ったのではっきりと覚えていた。
 でも、僕は例の目眩に襲われ、その隙にシバちゃんは体勢を立て直し、コーナーの出口では再び加速していて全く追いつけなかった。

「あー、そうだったかな。そうだったかも」
 シバちゃんの目は少し泳いでいる。

「……もしかしてシバちゃん覚えてないの?」

「俺、その日に滑った感覚は、なるべくその日のうちに消すことにしてるんだ」
 ぽつりとシバちゃんは言った。

 感覚を消す? 
 意味を理解しようと頭で反芻していると、

「はあ? なしてそんなことするんだよ」
 それまで後輩達と談笑していたエイちゃんが急に絡んできた。
 よっぽど気になったんだと思う。

「……そうしないと、俺は滑れないんだよ」
 シバちゃんはエイちゃんの方を見て一瞬気まずそうな顔をした後、ドリンクボトルを一口飲んで言った。

「じゃあ、お前自分のミスとか覚えてないの?」

「ミスは……した瞬間、身体に刻み込むさ。出遅れた瞬間、ぐらついた瞬間、転びそうになった瞬間。……怪我した時、血が流れるのを見て、痛いって思うでしょ? 一瞬で全部の神経が集中する、あの感じに近いかな。そうすれば……脳が忘れても、体は忘れないんだ」

 シバちゃんは床の一点を見つめながら、一言一言確かめるように言った。
 エイちゃんは眉を顰めて、少し首を傾げた。

「……お前、意外と難しいこと考えて滑ってんのな」
「だから考えてないって。Don't think?」
「Feel!」
 エイちゃんの素っ頓狂な声にシバちゃんが吹き出した。

 皆一緒になってゲラゲラ笑っていたけど、僕は全然笑えなかった。
 だって、どう考えても、笑い飛ばせるような話じゃない。

 スケートの感覚を消すかわりに、ミスを痛みのように刻みつけるだって? 
 僕にはそれがどういうことなのかも、どうすればそんなことができるのかも分からない。
 ……けれど、この際それは問題じゃない。

 シバちゃん、一体何のためにそんなことをするの? 
 それをしなけりゃ滑っていられないって、どういうこと? 

 何だかすごく怖いことを言っている気がするのに、シバちゃんがまるで無かったことみたいにして笑うから、僕はまた何も言えなくなってしまった。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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