第6話 Me, I’m not.

文字数 1,477文字

 利き手を怪我すると、車の運転も一苦労だ。

 慎重に運転してきたので、タイムカードを切るのがギリギリになってしまった。
 午後のシフトは貸靴カウンターの予定だったけれど、バイトの子に怪我の一件を話して、ロビーの受付に変えてもらった。

 私は、ここグランピア前橋スポーツクラブの契約社員。
 スケートのインストラクターを兼ねた雑用係なので、できることは何でもやる。
 受付、パトロール、整氷の補助、用具の管理、清掃。
 それらと並行して、スケート教室の講師も務めている。

 私がガタガタいわせながら券売機の詰まりを直している横で、弥栄ちゃんは大学の後輩に仕事の引き継ぎをしていた。
 一流スポーツメーカーに就職が決まっている弥栄ちゃんは、四月から東京。

 私はこの八年間、一体何人のアルバイトの子たちを見送ってきたことだろう。
 在学中バイトで数年働き、卒業と同時に華々しく都会へ出て行く若者達。
 一人一人思い浮かべようとしても、もはや忘れてしまった顔の方が多い。
 気付けば、数えるほどの正社員を除けば、私は最年長になっている。

 ……あんな風にはなりたくない、と思われてるんだろうな。
 もちろん、そんなこと誰も口に出さないけれど。

 手に持ったトレーの中、くしゃくしゃの紙切れを見つめる。
 どんなに仕事に誇りを持っていたとしても、三十過ぎて学生でも勤まる仕事を肩を並べて行うのは、惨めに感じてしまうものだ。
 気持ちが沈んでいる時には、特に。


 指導室に戻ると、デスクカバーに挟みっぱなしにしていた来年度の契約更新書が目にとまった。
 これ、まだ提出してなかったんだ。
 早く書いて出さなきゃ。
 鞄からペンを出そうとして、手を止めた。

 四月からの一年のことを考えてみる。

 グランピア前橋のリンクは通年ではなく、秋冬限定の営業だ。
 だから私のリンク業務も、三月いっぱいで終わる。
 来月からは屋内プールに移動。
 再びリンクが再開する九月まで、教室は通年リンクを求めて週一~二で練習場所を転々とする。
 埼玉アイスアリーナ、軽井沢風越リンク……。
 夏季の方がスケジュールが変則的で、肉体的にも精神的にもハードだ。
 移動にかかるお金と時間もばかにならない。
 せめて雑用が無ければと思うけれど、そもそも私はスポーツクラブに雇われているのだから、スケートの指導だけに集中なんてできない。

 あの中途半端な日々が、また繰り返されるのか。
 私は大きく溜息をついた。

 休憩がてら、スポーツ専門求人サイトにログインしてみる。
 三十代前半、スケート、インストラクター、群馬、埼玉……どんどんチェックを入れていく。
 こんなニッチな条件で、まさかヒットするはずもあるまい。
 自虐まじりの笑みを浮かべながら、検索ボタンを親指でタッチした。

 該当記事、一件。

 心臓がドクンと鳴った。

 榛名学院スケート部、臨時インストラクター募集。
 アイスダンスシルバー以上所有者、急募。

 完全に、私は該当していた。
 連盟のインストラクター資格を持っているし、アイスダンスもプレゴールドを取得している。

 しかし、私の目は自然と学校の名前に吸い寄せられ、鼓動は速くなり、呼吸は浅くなった。

 ……あの大学が、中退した私を、受け入れてくれるのか。

 私は首を小さく横に振った。
 そんなこと、ありえない。
 
 それに、万が一ありえたとして、果たして私の方にそんな覚悟があるというのか。
 あの門を再びくぐる覚悟が。

 私は脱力し、細く息を吐いた。
 軽い気持ちで検索してしまったことを後悔した。
 ブラウザをそっと閉じ、スマホをジャージのポケットに仕舞った。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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