第24話 この世全ての氷ごと
文字数 1,656文字
「……ねえ、どうしてフィギュアをやめたの? 訊かれたくないのは分かってるのよ。でも、戻るつもりなら、手放した理由も聞かせて」
刀麻君は一瞬視線を逸らした。
けれど、私は彼の目を見上げて離さない。
前を向いているのは私。
ぎゅっと手を握り、エッジで強く氷を捉え、進行方向へとリードする。
刀麻君は観念したように短く息を吐き、切なげに口元を歪めた。
「笑わないって約束する?」
「もちろん」
「……夢を、見たんだ」
「夢?」
刀麻君は頷く。
「俺は、深い森で道に迷ってた。暗闇が怖くて、とにかく光を探した。夢中で走って、湖にたどり着いたよ。そこは、天然のスケートリンクみたいに一面凍ってて、月の光できらきら輝いてる。……でも、足元を見ると、履いてたはずの靴が無いんだ。途方に暮れてると、声が聞こえてきた。『お前が落としたのは、金の靴か、銀の靴か』って。回りを見渡しても、誰もいない。声が、男なのか女なのかも分からない。俺は答えたよ。『両方だ』ってね。……先生。俺のこと、おかしいって思う?」
私を覗き込む瞳は、月光が差したように濡れていた。
丸ごと夜をガラスに閉じ込めたような目の正体に、私はようやく気付いた。
この目は、私に似ているのだ。
眠れない夜を背負って鏡の前に立つ、私の目。
暗闇のずっと奥、宙に浮いた無限遠点。
「ううん。全然。全然、おかしくなんかないよ」
私はとぎれとぎれに声を絞り出した。
それは掠れるほど小さかったけれど、私の精一杯の声だった。
刀麻君は眩しげに目を細め、よかった、と吐息混じりに呟いた。
「……でも、俺の答えは受け入れられなかったみたいだ。突然、氷から無数の手が伸びてきて……気付いた時には、俺は取り込まれてた。腰まで氷漬けで動けなくなった俺の手には、一足だけスケート靴が残されてたよ。冥土の土産みたいにね。だけど、俺にはもう、その靴が何色なのかも分からないんだ。だって、そこは涙さえ凍るほど寒くてさ……」
そう遠くない田舎のことでも語るように言ってみせるのは、今でもそこに囚われているから。
一度堕とされたら、その糸を完璧に断ち切るまで、私達は何度でもあそこに引きずり込まれる。
スケートなんて、この世全ての氷ごと壊してしまいたい。
これさえ無かったら。
こんなものに出会わなければ。
まともに、穏やかに、健康に……あとは、何が欲しい?
自分の持っていない物をこれ見よがしにカウントして、幾つ手に入れれば、私は満足する?
本当は、これが無ければ、生きてこられなかったくせに。
これだけが、生を更新する理由だった。
腰まで氷漬けにされながら、体液と組織片を氷層に積みながら、私たちはなお上を目指す。
光が欲しいからじゃない。
欲しいのは、力。
天地を返す衝撃。
法則を塗り替える開闢。
次元を超える飛翔。
私をこんな風にしてしまった世界ごと全て。
叩き割って、新しく生まれ変わらせて。
そのためなら、私はたとえ悪魔でも、その翼を羽ばたかせてみせる。
手段は、選ばない。
「……じゃあ、取り戻しに行かないとね」
ターンを回って滑りを止めると、重ねた身体をそっと離した。
静寂のリンクの中心で、胸いっぱいに氷の匂いを吸い込み、うんと背伸びした。
一体何周滑っていたのか。
不思議と呼吸は穏やかで、身体は疲労を上回る愉悦で満たされていた。
私は刀麻君と向き合った。
「それは元々、あなたの物よ。奪われたのなら、取り返しに行きましょう。……何年越しの利息を付けてね」
刀麻君は一瞬驚いたように目を見開いた後、
「そう来なくっちゃ、先生」
そう言って、唇の片端をつり上げ、戦慄するほど不敵な笑みを浮かべた。
霧が凍結し、黒い翼のように広がるのが見えた。
私は、是が非でもあの門をくぐらなければならない。
たとえ、それが地獄へ通じる門であったとしても。
私は必ずたどり着く。
刀を携え、再び氷の神殿へ。
はらり、と右手を覆っていた包帯がほどけ、氷の上に落ちた。
燃えるような傷跡がそこにあった。
(第三章 終)
刀麻君は一瞬視線を逸らした。
けれど、私は彼の目を見上げて離さない。
前を向いているのは私。
ぎゅっと手を握り、エッジで強く氷を捉え、進行方向へとリードする。
刀麻君は観念したように短く息を吐き、切なげに口元を歪めた。
「笑わないって約束する?」
「もちろん」
「……夢を、見たんだ」
「夢?」
刀麻君は頷く。
「俺は、深い森で道に迷ってた。暗闇が怖くて、とにかく光を探した。夢中で走って、湖にたどり着いたよ。そこは、天然のスケートリンクみたいに一面凍ってて、月の光できらきら輝いてる。……でも、足元を見ると、履いてたはずの靴が無いんだ。途方に暮れてると、声が聞こえてきた。『お前が落としたのは、金の靴か、銀の靴か』って。回りを見渡しても、誰もいない。声が、男なのか女なのかも分からない。俺は答えたよ。『両方だ』ってね。……先生。俺のこと、おかしいって思う?」
私を覗き込む瞳は、月光が差したように濡れていた。
丸ごと夜をガラスに閉じ込めたような目の正体に、私はようやく気付いた。
この目は、私に似ているのだ。
眠れない夜を背負って鏡の前に立つ、私の目。
暗闇のずっと奥、宙に浮いた無限遠点。
「ううん。全然。全然、おかしくなんかないよ」
私はとぎれとぎれに声を絞り出した。
それは掠れるほど小さかったけれど、私の精一杯の声だった。
刀麻君は眩しげに目を細め、よかった、と吐息混じりに呟いた。
「……でも、俺の答えは受け入れられなかったみたいだ。突然、氷から無数の手が伸びてきて……気付いた時には、俺は取り込まれてた。腰まで氷漬けで動けなくなった俺の手には、一足だけスケート靴が残されてたよ。冥土の土産みたいにね。だけど、俺にはもう、その靴が何色なのかも分からないんだ。だって、そこは涙さえ凍るほど寒くてさ……」
そう遠くない田舎のことでも語るように言ってみせるのは、今でもそこに囚われているから。
一度堕とされたら、その糸を完璧に断ち切るまで、私達は何度でもあそこに引きずり込まれる。
スケートなんて、この世全ての氷ごと壊してしまいたい。
これさえ無かったら。
こんなものに出会わなければ。
まともに、穏やかに、健康に……あとは、何が欲しい?
自分の持っていない物をこれ見よがしにカウントして、幾つ手に入れれば、私は満足する?
本当は、これが無ければ、生きてこられなかったくせに。
これだけが、生を更新する理由だった。
腰まで氷漬けにされながら、体液と組織片を氷層に積みながら、私たちはなお上を目指す。
光が欲しいからじゃない。
欲しいのは、力。
天地を返す衝撃。
法則を塗り替える開闢。
次元を超える飛翔。
私をこんな風にしてしまった世界ごと全て。
叩き割って、新しく生まれ変わらせて。
そのためなら、私はたとえ悪魔でも、その翼を羽ばたかせてみせる。
手段は、選ばない。
「……じゃあ、取り戻しに行かないとね」
ターンを回って滑りを止めると、重ねた身体をそっと離した。
静寂のリンクの中心で、胸いっぱいに氷の匂いを吸い込み、うんと背伸びした。
一体何周滑っていたのか。
不思議と呼吸は穏やかで、身体は疲労を上回る愉悦で満たされていた。
私は刀麻君と向き合った。
「それは元々、あなたの物よ。奪われたのなら、取り返しに行きましょう。……何年越しの利息を付けてね」
刀麻君は一瞬驚いたように目を見開いた後、
「そう来なくっちゃ、先生」
そう言って、唇の片端をつり上げ、戦慄するほど不敵な笑みを浮かべた。
霧が凍結し、黒い翼のように広がるのが見えた。
私は、是が非でもあの門をくぐらなければならない。
たとえ、それが地獄へ通じる門であったとしても。
私は必ずたどり着く。
刀を携え、再び氷の神殿へ。
はらり、と右手を覆っていた包帯がほどけ、氷の上に落ちた。
燃えるような傷跡がそこにあった。
(第三章 終)