第27話 おばあちゃん

文字数 728文字

 リンクを出た俺を、見慣れた白のレガシィが待っていた。
 運転席の窓を開けて、浪恵先生が顔を出す。

「帰るんでしょう。乗りなさい。それともまさか自転車?」
 いえ、と躊躇いがちに俺が首を振ると、

「同じ家に帰るのに、遠慮しても仕方ないでしょう」
 浪恵先生は溜息をつき、荷物を入れるようトランクを指差した。


 助手席に乗り、信号が赤になったのを見計らって、俺は口を開いた。

「浪恵先生。……俺、もう一度リンクに立ってもいいですか。選手として、もう一度」
「……とっくに気付いているはずですよ、洸一。あなたがそう決意するのを、私はずっと待っていました」
 浪恵先生は視線を前に向けたまま言った。
 目尻がほんの少し緩み、瞳が潤んでいるように見えた。

「ありがとう、おばあちゃん」

 浪恵先生は、無言で俺の手を握った。
 幼い俺を氷上へ導いてくれた手は、今も変わらず温かい。
 涙はもう出ないと思っていたのに、少しだけ俺は泣いた。


「……少なくとも私はね、『移民の歌』を気に入っていたのですよ。たとえ減点を受けても、あれは瑞紀が、プライドを持って滑ることができる曲でしたから。でも、五輪を前に、瑞紀は急に、あの曲はダメだと言い出したのです。私には分かりません。あんなに自信たっぷりに滑っていたものを、急に忌避するなんて。そして突然私の元を離れロシアへ渡り、選んだのは『シェヘラザード』……あれは、命乞いの歌です。殺されたくないがために一晩だけを生き延びる。そんなものがあの子に合っていないのは、誰の目にも明らかでした。でも、あれじゃなきゃダメなんだと。先生には分からない、と。……一体瑞紀には何が見えていたのか。何を恐れていたのか……彼女を蝕む病の源を、今でも私はずっと考えているのですよ」
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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