第5話 兄と妹

文字数 1,060文字

 突然、テーブルの上のスマホが震えて、どきりとした。
 洵君からのLINEだ。

「朝霞先生、おはようございます。エストニアは夜の11時です。早く寝なきゃいけないんですが、眠れなくて。今日のショート、3Aをミスしたのが悔しいです。汐音(しおん)が見てたら、まだまだだねって笑うかも。明日のフリーでは絶対にノーミスしたい。最後まで気を抜かずに頑張ります」

 汐音(しおん)

 絵文字の一切無いシンプルな文面から、一人の少女の名前が目に飛び込んできて、胸に突き刺さった。

 それは、私達が今でも乗り越えていない喪失の名だった。
 彼が氷上に立つ限り、永遠に携え続ける空白。決して埋まることのない洞。

 私は、遠い北欧の地で一人眠れずに宙を見つめる洵君を想像し、きり、と唇を噛んだ。

 ついていけばよかった。
 岩瀬先生に気後れなどしている場合ではなかった。
 たとえどんなに場違いだったとしても、私個人のくだらない見栄なんかかなぐり捨てて、一緒に行くべきだったのだ。


 返事を紡ぐのは、難しかった。
 でも、洵君は絶対に待っている。
 向こうが朝になってしまえば、彼はもう完全に試合モードに入って、全ての通知を切ってしまう。

 私はできるだけ手短に送った。

「洵君、ショートお疲れ様。スピン全部レベル4取れて本当によかった。二人でバリエ色々練った甲斐があったね。洵君ならフリーも大丈夫。汐音ちゃんも見守ってるよ。今日はちょうどジュニアSのレッスンがあるので、皆で応援するね。よく眠れますように。おやすみなさい」

 そう、私なんかにできることといえば、彼の穏やかな眠りを祈ることくらいだ。
 何にも邪魔されない、安らぎと休息を。
 洵君の身体と心が、十分に癒やされますように。

 汐音ちゃん、どうかお兄さんを守って。

 記憶の中の汐音ちゃんは、まるで兄の取り分を全て持って行ってしまったように、底抜けの天真爛漫さで笑っていた。

 あの頃私は汐音ちゃんに、せめて兄の百分の一でもスケートに対する真摯さが欲しいと思っていた。
 でも今は、妹の奔放さを少しでも洵君に分け与えてほしいと願わずにはいられない。

 陸で生じた感情を全てエッジに封印し、氷上で堰を切ったように解放する彼のスケートは、いつかぽきりと折れてしまいそうで恐い。
 今も遠い空の下で、彼の体内には感情の濁流が渦巻いている。
 あの奔流は、もはや私の手に負えない。
 だから私は、祈るなんて行為に頼るしかないのだ。

 カーテンを開けると、まだ薄暗い朝靄の中、細い光が差し込んでいた。
 私はその光を吸い込むように目を閉じ、そっと両手を組んだ。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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