第25話 Penetration/Metamorphoses

文字数 1,944文字

「四回転習得のためには、まずはスタミナ。クワドはたった一回で凄まじい体力を消耗する。そして、高速回転の遠心力に耐えうる筋肉。特に、細い軸を作るための体幹だな」

 ランニングを敷島(しきしま)公園二周分追加、距離にして約六キロ増やした。
 隙を見ては体幹トレーニングを行い、パワーアンクルを付けて階段を上り下り。
 週五だった氷上練習は週六に。
 バレエを辞めた分、ストレッチは念入りに行う。

 十パーセントだった体脂肪率は、一ヶ月で八パーセントに落ちた。
 気付けば臀部(でんぶ)から太腿(ふともも)にかけて、筋肉が浮き上がっている。
 姿見に映すと、別人のように体型の種類が変わっていた。

 前だって、俺は俺だと思っていたはずなのに、今の俺はもう前の俺を俺だとは思えない。
 像が延長線上に重ならない。

 誰よりも練習しているはずだ? 
 じゃあなぜこんなにも変わる余地が残されている? 
 ……きっと、漫然と練習をしていたんだ。

 今の俺は、ちゃんと焦点が合っているか? 
 毎日鏡に問い掛ける。

『何に?』
 向こうから問い返される。

 結んだはずの像が解ける。


「人畜無害のジキルであるエドワード・ノートン。破壊的なハイドのブラッド・ピット。演じるべきは、どちらだと思う?」
 氷上ダッシュを終えて膝を付いた俺に、唐突に岩瀬先生は尋ねた。

「……どちらでも、ないと思います。ヘレナ=ボナム・カーターが目撃している彼の二面性。それが混ざり合った第三の姿を、演じるべきだと」

 息も絶え絶えに俺は答える。
 会心とばかりに先生は笑う。

「パーフェクト。やはりお前は、俺が見込んだスケーターだ。……選ばせてやる。お前にとって初めての四回転。最初にその手に収めたいのは何だ?」

「サルコウ。四回転サルコウです」
 ありったけの力を込めて、俺は言った。

 あの日、目の前で跳ばれた残像が今も焼き付いて消えない。
 あの四回転サルコウだけは、映像で見るのとも試合で見るのとも違った。
 助走。踏み切り。バネ。回転。着氷。
 全ての流れを至近距離で体感した。

 今思うと、あれはあまりにも滑らかな誘惑だった。
 体格もタイプも、何もかもが違うのに、トーマのイメージは際限なく俺の中へと入ってこようとする。
 高い浸透圧で、空隙(くうげき)を埋め尽くさんとばかりに。

 だが呑み込まれたら今度こそ、俺=虚無の証明になってしまう。
 そんなものは受け入れられない。

 境界線を強く引く。
 俺だけのサルコウを作らなければ。
 俺の名前を刻むために。

 岩瀬先生はiPadで俺とトーマのトリプルサルコウを撮影し、それからトーマの四回転サルコウを撮影して見せた。

「お前は跳び上がってすぐに回転を始めるタイプ。芝浦はディレイド。タイプは真逆だが、芝浦の着氷は実に参考になる。点じゃなくて、線だな。着氷地点を見切った上で、その先の軌道にエッジを乗せる。氷上の直線に導かれるようなイメージだ。降りるまでが四回転どころか、降りてストレートに抜けていくまでが四回転。要はジャンプイメージのスパンを広く、そして着氷からの周到な逆算だ」

 視覚化という岩瀬先生の教え方は俺に馴染んだ。
 トーマの四回転の立体映像。
 そこに俺のイメージを重ね、試行錯誤で変容させていく。

 だが、現実には着氷すら叶わず、何度となく肉体は氷に叩き付けられる。
 痛くて、ついには脚が痺れる。
 痛みと恐怖の違いにこだわる俺は、転ぶのばかりが上手くなる。

 這いつくばる俺を、トーマが見下ろす。
 氷をそっくり切り取った目で。イメージなのか、本物なのか。
 だが、聞こえてくる声はあまりにも生々しい。

『そこから見る景色はどうだ?』
 ……ああ、悪くないよ。
 一度落ちたら、あとは這い上がるだけだからな。

 青痣(あおあざ)が増えていく。
 痛めた所から強くなると信じたい。

 知ってるか? トーマ。
 氷の上はな、転ぶと痛いんだ。
 転ばないお前には、痛みの意味も分かるまい。
 俺は、絶対に間違えないぞ。

 金色のモヤが宙を舞う。
 傷を、隙間を、狙っているのか。
 俺に近付くな。
 粉々に、握り潰す。

 十一月の全日本ジュニアまで、あと四ヶ月。
 榛名(はるな)に拠点を移して二ヶ月が過ぎようとしていた。
 こんなにも長く氷上にいたことは無かった。

 それでも、まだ足りない。
 スケート以外の属性を削ぎ落としてしまいたい。
 欲しいのは、永遠にスケートを滑っていられる身体。
 昔は、汐音の歴史の続きを紡ぐためにそれが欲しかった。
 今は、自分のため。

『だが、自分の、何のためだ?』
 鏡の問い掛けは容赦が無い。
 ……それが分かれば、お前となんか毎日顔を突き合わせないんだよ。

 分かりたい、と叫ぶ声がする。
 身体の奥から。鏡の向こうから。
 それだけのために滑りたいのかもしれない。
 こんなにワガママな自分がいたとは、知らなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み