第22話 無かったみたいに

文字数 862文字

「前にさ」

 ハープの泉を通り過ぎたところで、思い切って俺は口を開いた。

「晴彦、俺の眼鏡は全然似合ってない、嫌いだって言ったよね。……それはやっぱり、俺がスケートから逃げてると思うから?」

 チェーンの音が緩み、止まった。
 振り向くと、晴彦は何かを堪えるような目で俺を見ていた。

「……違う。全然違う」
 強く言い放った後、少しの間言葉を探すように目を伏せた。

「俺が、思い出すから嫌なんだ。あの事故のことを。あの時、同じ場所にいたのに、足がすくんで何も出来なかった自分を、思い出すから」
 俯いたまま、掠れた声で晴彦は言った。
 そしてゆっくりと自転車を押し、また歩き出した。

 返す言葉がすぐに見つからない。
 市役所を通り過ぎる。
 縄跳びが空中で止まったような銅板のオブジェ。これが何を表しているのか十八年間ついぞ一度も調べたことがない。

「あの時は晴彦、次のグループで出番を控えてただろ。何も気に病むことなんか無いよ」

「浪恵先生がさ、リンクの上から手で制したんだよな、来るなって。……でも、俺は今でもあの時飛び出して行けばよかったって、後悔してる」

 夕闇の中、灯りの点った公園を、俺達は通り過ぎる。
 晴彦はふと首を軽く振って、独り言のように呟いた。

「だから、心が弱ってる時とかにお前の眼鏡見ると思うわけ。……あー、時間、戻らねぇかなって」

 胸がズキンと痛んだ。
 時間、戻らねぇかな。
 胸の中でエコーが掛かる。
 そんなこと、一度も思ったことがないはずなのに、言葉になって目の前に現れたそれは、一年半削りに削り、積もりに積もった俺の全部だった。

「俺もお前も寒河江も、みんな、あんな事故なんか無かったみたいに滑れたらいいのにって。すげー勝手な考えだけど。そんなのは無理って、分かってるよ。寒河江みたいに今この場所からできることをやってくしかないなんて、知った上で、それでも思うんだよ。……俺は、お前のスケートが好きだったからさ」

 歩きながら、横目で俺に微笑んでみせる。
 その目は、俺が膜に閉じ込めた全部を、代わりに吸い込んだように潤んでいた。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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