第1話 エッジは刃物

文字数 1,240文字

 ずきずきと右手首に走る鈍痛で、目が覚めた。

 いつも意識が醒めると感じる吐き気が、今朝は無いことに気付く。
 吐き気の無い朝なんて、どのくらい久しぶりだろう。
 きっと、この痛みのせいだ。

 ゆっくりと目を開けると、手首に巻かれた白い包帯が視界を埋めていた。
 布団にくるまったままぼんやりと、しばらく見つめる。
 頭の靄が次第に薄れていき、記憶が戻ってくる。

 そうだった。
 私はゆうべ、仕事中に怪我をしたんだった。


 昨日は夕方から上武大アイスホッケー部の貸し切りだったので、貸靴カウンター業務の私は、端的に言って暇だった。

 レンタルコーナーには、フィギュアとホッケー合わせて八百足もの靴がある。
 日誌を確認すると、よく出る20cmから26.5cmは定期的に研磨されているけれど、27cm以降についてはここ一ヶ月ほど記録が無かった。

 私は部屋の奥に行き、目に付いた靴を手に取った。
 あまり使われてないからか革の部分は綺麗だけど、ブレードをひっくり返して見ると真っ平らで全くバリが無かった。
 これじゃあインエッジもアウトエッジもあったもんじゃない。
 もっとも、貸し靴を使うのは殆どが初心者なので、エッジを使い分けたスケーティングなんて誰もしないのだけど。

 私は壁時計を見上げた。
 貸し切りが終わるまではあと一時間以上ある。
 私は27cm以降の貸靴の研磨をすることにした。

 研磨と言っても、全自動の卓上研磨機を使って行う簡単なもの。
 ブレードを溝にセットし、スイッチを入れると下の砥石が回転する。
 私は一足一足、無心で研磨機に掛けていった。

 靴を研ぐのは好きだ。

 大地に馴染めず、氷上に居場所を求めた、人類の進化の一つの形。
 スケーターの正体は、とどのつまりそれだ。

 そんな生物の足場を支える靴を磨くというのは、すなわち孤独に寄り添うということ。
 スケート靴の数だけ孤独は存在する。
 その一つ一つに、感覚を研ぎ澄ませよ、その方向で間違っていない、と言い聞かせながら、私は今日も靴を磨く。
 誰に届くわけでもないと分かっていても。

 27cmをあるだけ研ぎ終え、27.5cmに取りかかろうと手に取ると、ブレードが全体的にザラザラするのを感じた。
 よく見ると、後ろにほんの少しだけ錆がある。
 私は迷った末、丸砥石とオイルを用意し、手でエッジを研ぎ始めた。

 縦に何度も往復し、インとアウトのカーブを蘇らせるように。
 摩耗して埋もれ、眠りについたエッジを、再び呼び覚ますように。
 片方を研ぎ終わり、もう片方も。

 そうして無心に手作業で研いでいたら、オイルで滑って砥石が手からこぼれ落ち、あっと思った時にはもう遅く、親指の付け根から手首にかけてざっくりと皮膚が切れていた。

「痛っつ……」

 エッジは刃物。
 当たり前すぎて忘れがちな事実が、傷となって眼前に現れた。

 瞬く間に血が湧き出て、だらだらと腕を滴り落ちていく。
 深く切りすぎて逆に痛くないのが怖い。
 とりあえずハンドタオルで傷口を抑え、救護室に向かった。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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