第20話 跳躍の果て
文字数 1,571文字
洵君は、空中で三回転半回りきったように見えた。
しかし、回転の途中で軸がぶれ、腰から氷に叩きつけられた。
女の子の間から、小さな悲鳴が上がる。
隣の弥栄ちゃんも浅く息を呑んでいた。
刀麻君は、眉一つ動かさず、画面の向こうの洵君を見守っていた。
すぐに、洵君は立ち上がった。
下半身を包む黒いビロードのパンツは、氷の削りカスで真っ白になっていた。
しかしその目は一粒も光を失うことなく、自分が戻るべき軌道を真っ直ぐに捉えていた。
私は、彼との間に埋められない大きな距離があることを悟った。
しなやかにビールマンスピンを回り終わると、ウィンナワルツのリズムでステップを踏みながらトリプルサルコウ、トリプルループ+ダブルトウ。
……強くなったね、本当に。
私は心の中で呟いた。
晩鐘が死の舞踏に終わりを告げる。
一瞬の静寂の後、ピアノが穏やかにリズムを刻み出す。
エリザベートの歌声が聞こえる。
このプログラムは主役の登場とともにフィナーレを迎える。
そういう風に、私が作った。
エリザベートの気高さで最後を締めくくりたかった。
洵君がエリザベートに汐音ちゃんを重ねると言うのなら、私は死ではなく、生で答えを出したい。
それがコーチとしての私の、たった一つの矜持だ。
逃げでも甘えでも構わない。他には何も持っていない。
全てを奪われても、これだけは譲れない。
ダブルアクセル+シングルオイラー+ダブルサルコウ……ターンの一部でしか無いというほど優雅にジャンプシークエンスを跳び終えると、まるで目の前に誰かがいるように手を差し伸べ、抱きかかえるように空を抱く。
彼は今、誰でもない。
死神ですらなく、例えるならそれは影だ。
フリーレッグの高さ、上半身の角度、指先から腕のライン、そして視線。
身体の生み出す動きの全てが、空白に寄り添っていた。
それは、優雅の究極の形。
傍らに愛しい人がいるように、そしてその存在を片時も忘れることがないように、気配を携えるということ。
彼は空気に没入し、彼女の姿が浮き彫りになる。
空気を牽引するのは、彼女だ。
高らかなエリザベートの歌声と共に、洵君は自らが最も得意とするジャンプ、トリプルフリップを跳んだ。
そして着氷後両足を広げ、レイバック・イナバウアー。
見る者全ての感情を束ねて、その軌道に重ねていく。
しなやかに倒していた上体をゆっくりと戻した時の、彼の顔。
どんな瞬間より晴れやかな感情が満ちていた。
このプログラムが好きだという気持ちが伝わってくる。
……作らなければよかっただなんて、嘘だ。
私は、霧崎洵というスケーターを誇りに思う。
客席は最後のコンビネーションスピンのうちから既にスタンディングオベーションで、トンプソンの姿勢のまま洵君が天に拳を突き上げた時には、爆発のような拍手と歓声がリンクに響いていた。
『……信じられません、これが世界デビュー戦。見る者全ての心を掴む四分間。霧崎洵、圧巻の演技で会場を魅了しました』
実況アナウンサーの声は、感極まっている。
鼻をすする音が、生徒達の間から聞こえてきた。
彼女達は、生前の汐音ちゃんを知っている。
洵君が一度は喪に服すようにスケートを離れ、そして再び戻ってきた過程を知っている。
天才少女の陰に隠れていた冴えない兄が、亡くした妹のスケートを全て取り込むかのように成長し、世界の舞台まで上り詰めた、その道程の厳しさを知っている。
画面の中で洵君は、肩で息をしながら深くお辞儀をし、観客に応えていた。
何かを噛みしめるように口元を固く結び、何度もかすかに頷く。
その瞳にはうっすらと涙の膜が張っているように見えた。
私は訂正しなくてはならない。
彼は、天性のフィギュアスケーターなんかじゃない。
自らの努力で、フィギュアスケーターに成ったのだ。
しかし、回転の途中で軸がぶれ、腰から氷に叩きつけられた。
女の子の間から、小さな悲鳴が上がる。
隣の弥栄ちゃんも浅く息を呑んでいた。
刀麻君は、眉一つ動かさず、画面の向こうの洵君を見守っていた。
すぐに、洵君は立ち上がった。
下半身を包む黒いビロードのパンツは、氷の削りカスで真っ白になっていた。
しかしその目は一粒も光を失うことなく、自分が戻るべき軌道を真っ直ぐに捉えていた。
私は、彼との間に埋められない大きな距離があることを悟った。
しなやかにビールマンスピンを回り終わると、ウィンナワルツのリズムでステップを踏みながらトリプルサルコウ、トリプルループ+ダブルトウ。
……強くなったね、本当に。
私は心の中で呟いた。
晩鐘が死の舞踏に終わりを告げる。
一瞬の静寂の後、ピアノが穏やかにリズムを刻み出す。
エリザベートの歌声が聞こえる。
このプログラムは主役の登場とともにフィナーレを迎える。
そういう風に、私が作った。
エリザベートの気高さで最後を締めくくりたかった。
洵君がエリザベートに汐音ちゃんを重ねると言うのなら、私は死ではなく、生で答えを出したい。
それがコーチとしての私の、たった一つの矜持だ。
逃げでも甘えでも構わない。他には何も持っていない。
全てを奪われても、これだけは譲れない。
ダブルアクセル+シングルオイラー+ダブルサルコウ……ターンの一部でしか無いというほど優雅にジャンプシークエンスを跳び終えると、まるで目の前に誰かがいるように手を差し伸べ、抱きかかえるように空を抱く。
彼は今、誰でもない。
死神ですらなく、例えるならそれは影だ。
フリーレッグの高さ、上半身の角度、指先から腕のライン、そして視線。
身体の生み出す動きの全てが、空白に寄り添っていた。
それは、優雅の究極の形。
傍らに愛しい人がいるように、そしてその存在を片時も忘れることがないように、気配を携えるということ。
彼は空気に没入し、彼女の姿が浮き彫りになる。
空気を牽引するのは、彼女だ。
高らかなエリザベートの歌声と共に、洵君は自らが最も得意とするジャンプ、トリプルフリップを跳んだ。
そして着氷後両足を広げ、レイバック・イナバウアー。
見る者全ての感情を束ねて、その軌道に重ねていく。
しなやかに倒していた上体をゆっくりと戻した時の、彼の顔。
どんな瞬間より晴れやかな感情が満ちていた。
このプログラムが好きだという気持ちが伝わってくる。
……作らなければよかっただなんて、嘘だ。
私は、霧崎洵というスケーターを誇りに思う。
客席は最後のコンビネーションスピンのうちから既にスタンディングオベーションで、トンプソンの姿勢のまま洵君が天に拳を突き上げた時には、爆発のような拍手と歓声がリンクに響いていた。
『……信じられません、これが世界デビュー戦。見る者全ての心を掴む四分間。霧崎洵、圧巻の演技で会場を魅了しました』
実況アナウンサーの声は、感極まっている。
鼻をすする音が、生徒達の間から聞こえてきた。
彼女達は、生前の汐音ちゃんを知っている。
洵君が一度は喪に服すようにスケートを離れ、そして再び戻ってきた過程を知っている。
天才少女の陰に隠れていた冴えない兄が、亡くした妹のスケートを全て取り込むかのように成長し、世界の舞台まで上り詰めた、その道程の厳しさを知っている。
画面の中で洵君は、肩で息をしながら深くお辞儀をし、観客に応えていた。
何かを噛みしめるように口元を固く結び、何度もかすかに頷く。
その瞳にはうっすらと涙の膜が張っているように見えた。
私は訂正しなくてはならない。
彼は、天性のフィギュアスケーターなんかじゃない。
自らの努力で、フィギュアスケーターに成ったのだ。