第11話 ゴング

文字数 775文字

「だって俺、転んだことなんかないぜ」
 しれっとトーマは言った。

 ……転んだことがない?
 だが、俺の口は先走る。

「たとえ練習で百発百中でも、本当の意味で跳べるとは言わないよ。ジャンプだけじゃない。スピンも、ステップも全て。演技に取り入れて、一つの流れの中で行うことで初めて本物になるんだ。……それが分からないのなら、君はまだ本当のフィギュアスケートを知らないということになる」

 トーマは足元に視線を落とし、唇を固く結んでいた。
 俺は追撃の手を緩めない。

「スピードに戻ったらどう? コンマ何秒の世界で速さを競う方が、君には合ってるんじゃないのか」

「……苦しいんだよな、もう」
 氷上に(こぼ)すように、トーマは言った。

「明日を考えず、昨日を切り離して、今日だけ走り抜けるのには、もう疲れたんだ」
「……苦しいのは、この世界だって同じだ」
「分かってるよ」
「いいや。分かってない」
 俺は一歩距離を詰める。

「君は、逃げてるだけじゃないのか。君は、一度だって自分からスケートを選び取ったことはあるか? 環境に流されず、自らの意志で、これだけは手放さないと、選び取ったことはあるのか?」

 トーマは答えない。
 ただじっと俺の目を見据えてくる。
 その視線の強度に(ひる)んではいけない。
 俺は更に語気を強くした。

「俺は選び取ってきた人間だ。俺にはフィギュアスケートしかない。いつだって、俺は選んで氷の上にいる」
「……それ本当か? アニキ」

 アニキ。
 鏡に声が反射する。
 記憶の中の汐音の声が、オーバーラップした。

 この時のトーマの目を、俺は一生忘れない。
 それは、今まで受けたことのない種類の挑発だった。
 合わせ鏡からいきなり向こうが飛び出してきたと言ったら、狂人だと言われるだろうか?
 だが、俺は物凄い生々しさでそれを感じたんだ。

 だから次の瞬間、俺は生まれて初めて人を殴っていた。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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