第4話 Ich gehör nur mir.

文字数 1,053文字

 トリプルアクセル。
 助走を取りすぎた俺は、踏み切りのタイミングを逃し、回転軸がぶれ、尻から氷に叩き付けられた。
 これだけ派手に転んだのに、痛みは全く感じない。
 感じたのはただ一つ、虚無だ。

 「お前の人間性を、証明しろ」
 ……こんな無様な姿がその証明だとしたら、あのモヤの言う通り、やっぱり俺は空っぽだ。

 それでも。
 歯を食いしばり、爪を立てて氷面を(にら)み付ける。
 ……氷上に、退路はありえないんだ。

 音楽は続く。
 俺は立ち上がり、再び滑り出した。

 凜としたピアノの音色に、エリザベートの歌声が重なる。
 視線を落とすと、足元が淡く発光していた。
 白く小さな光の輪。
 思わず、目を細めた。

 天の光を待つことに疲れ切った心が温められていく。
 満身創痍(まんしんそうい)の身体が包み込まれていく。

 ……どうして朝霞(あさか)先生がこんな風にプログラムを作ったのか、やっと俺は分かった気がする。
 この物語を死ではなく、生で締めくくるという、先生の覚悟。
 それが、俺をここまで連れてきた。

 なのに、どうしてあなたは今ここにいないんだ。
 誰よりも、見せたいのに。

 高らかな歌声に、精神世界を丸ごと託して俺は舞う。
 俺には翼は無い。
 それでも飛翔のイメージを消せないのは、いつだって音楽が背中を押すから。
 遠い空に思いを馳せて、俺は羽ばたく。
 こんな高みまで俺を導いてくれる人は、他にいない。

 だって、俺達は朝霞先生に見つけてもらったんだ。
 そうだよな?

 ……返事は無い。

『Denn ich gehör nur mir《なぜなら、私は私だけのもの》.』


 スタンディングオベーション。
 割れんばかりの拍手と歓声が、忘我(ぼうが)の俺を包んでいた。
 
 肩で息をしながら、型をなぞるようにお辞儀で応えた。
 ジャッジのことも観客のことも、すっかり頭から飛んでいた。
 ただ氷上の暗闇で一人、自分自身と対峙していただけ。

 気付くと、金色のモヤは消えていた。
 ……俺は

に勝ったのか? 

 花を拾いながら、リンクサイドへと戻る。

 岩瀬先生は、いつもの気難しい顔のまま無言でエッジカバーを突き出した。
 俺は少し身構えた。
 その表情は、降り注ぐ喝采(かっさい)とはあまりに対照的だった。
 それに、この五分間で一気に年をとったみたいにやつれて見えるのは気のせいだろうか。

「お前、思った以上に厄介なものを背負ってるな。……まあ、おかげで退屈しなさそうだ」
 意味深に呟いた後、皮肉げに笑って手を差し出す。
 意味を取りかねたまま、俺は吸い寄せられるようにその手を握った。
 初めて交わした握手だった。
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登場人物紹介

芝浦刀麻(しばうら とうま)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・北海道帯広市出身のフィギュアスケートとスピードスケートの二刀流スケーター。

・スピードスケート選手の父とフィギュアスケート選手の母のもとに生まれる。

・高校一年生の5月に榛名学院高等部に転校してくる。

・小学生の頃は野辺山合宿に参加するなど優れたフィギュア選手として頭角を表していたが、とある事件の後フィギュアをやめ、中学時はスピードスケート選手として500mの道内記録を塗り替え、全国大会二位の成績を収める。

・今作は、彼が再びフィギュアの世界に戻ってきたところから物語が始まります。

・12月8日生まれ、射手座のO型。

・身長178cm。

・得意技は四回転サルコウ、ハイドロブレーディング。苦手な技は特に無し。氷上は全て彼の領域。

霧崎洵(きりさき じゅん)


・榛名学院高等部一年。15歳。スケート部所属。

・全日本ジュニア選手権2位、世界ジュニア選手権3位と、昨シーズン破竹の勢いで頭角を表したフィギュアスケーター。

・学業優秀、スポーツ万能。そんな彼が唯一苦手とするのが“スケート”……その真相とは。

・双子の妹、汐音(しおん)はかつて史上最年少でトリプルアクセルを成功させた天才フィギュアスケート選手だった。

・出会った時から刀麻に反発し、初日にいきなり殴り合いの喧嘩をすることに。何が原因で、どんな経緯があったのか……?

・今作は刀麻と洵の愛憎を軸に物語が進みます。

・11月25日生まれ。射手座のAB型。

・身長167cm。

・得意技は三回転フリップ+三回転トウループのコンビネーションジャンプと、柔軟性を生かしたビールマンスピン。苦手な技はトリプルアクセル。

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