信じる心
文字数 2,461文字
「ありがとうございます。それでは、失礼致します」
声の主は深々と頭を下げ、静かに部屋へ入った。入室者は金属製のバケツを手にしており、そこには数枚の雑巾が入れられている。
「部屋に居ては邪魔になるだろうから、散歩がてら外出する。午前中に掃除を終え、ヘイデル警備兵総司令のアークを部屋に呼んでおけ。伝えねばならない事がある」
ベネットは、部屋へ入ってきた女性に用事を言い付けると、相手の瞳を真っ直ぐに見た。
「はい。ベネット様からの命、確かに承りました。出来る限り早く掃除を終え、総司令のアークをこちらへ呼んで参ります」
用事を言いつけられた女性は、手に持っていた道具を床へ置き、深々と頭を下げた。彼女の返答を聞いたベネットは軽く頷き、次の言葉を紡ぐべく口を開く。
「それでは、私は退室する」
ベネットは壁に掛けてあった外出用の上着を羽織り、荷物を持って部屋を出た。
それから数時間後、ベネットが滞在している部屋のドアが叩かれた。その音に気付いたベネットは、窓の外に向けていた目線をドアの方へ動かす。
「ヘイデル警備兵総司令、アーク・シタルカーです」
ベネットは、言付けをしておいた男の声に気付くと、静かにドアの方へ向かっていく。そして、ベネットがドアの鍵を開けて手前に引くと、そこには胸に手を当て、深々と頭を下げるアークの姿が在った。
「失礼致します」
アークは、そう言って顔を上げると、思いも寄らなかったベネットの変化に気付き、目を丸くする。彼が驚きによって固まってしまったことに気付いたベネットと言えば、アークの手を掴んで室内へ誘った。ベネットは、アークを部屋に入れた後でドアを閉め、他に誰も入れぬよう鍵をかける。
「大変申し上げにくいのですが、その髪は一体どうされたのですか?」
ベネットが部屋の鍵を閉めた後、アークは恐る恐る問い掛けた。
「この髪型のことか?」
ベネットは、左手で自らの髪を掴んで軽く揺らす。
「弱い自分と決別する為、けじめとしてやった」
ベネットは、驚く理由が理解出来ない様子で言葉を発し、髪から手を離した。彼女の返答を聞いたアークと言えば、何度か大きな瞬きを繰り返した後で口を開く。
「そうでしたか。ですが、事前に仰って下されば、こちらに専門の者を呼びましたのに」
「驚かせてしまった事は謝ろう。だが、私の弱く脆い部分と決別するには、自ら髪を切り落とす事が最善だと考えたのだ。それにしても、髪が短いと何かと楽なものだな」
アークの心配をよそに、ベネットは淡々とした口調で話し続けていく。その話し方に、アークは何か言いたそうに口を開いた。しかし、それが声として発せられる事は無く、彼は暫くの間苦笑いを浮かべていた。
「気に入っておられるのなら何よりです」
彼は、恐る恐るベネットの瞳を見つめると、至極言い辛そうに自らの意見を述べていく。
「御言葉ではございますが、裁判が行われる際に、その髪型では流石にまずいです。せめて、切り揃える位はなさらないと」
「確かに、そうかも知れないな。だが、裁判へ赴く際には、OTΟの装束を身に付ける。あれは全身を覆う装束だ。髪型など、余程に近寄らねば分かるまい。兎に角、貴公を呼んだのは他でもない。気持ちの整理がついた。直ぐにでも裁判の手筈を整えてくれ」
「もう宜しいのですか? あれから、たったの二日しか経っておりませんよ?」
ベネットの話を聞いたアークは、目を見開きながら確認した。
「構わない」
ベネットは軽く目を瞑り、ゆっくり息を吸い込んだ。
「久しぶりに一人で過ごした時間の中で気付いたのだ。仲間が居たから此処まで来られたこと。そして、その仲間を失いたくない気持ちに」
そこまで話すと、ベネットはアークの目をしっかりと見る。
「だから、私はザウバーの事を赦そうと思う。否、一時の感情より、共に過ごした時間を信じたい」
ベネットは質問者に背を向け、窓の方へ歩いていった。そして、窓から晴れ渡った空を仰ぐと、アークの方に向き直る。
「それに、信じ合う力が強ければ、魔物の呪詛を打ち砕く事も出来るだろう」
ベネットは、窓の桟に手を掛けて軽く目を瞑り、話を続けていく。
「だから、私は信じようと思う。ザウバーは、二度と裏切りはしないと」
そこまで伝えると、ベネットは話す事を止め、再び窓から空を仰いだ。
「そうですね。精神を操られている場合は、周りの呼びかけが効果的と言われておりますから」
ベネットの話を聞いたアークは、優しく微笑みながら同意した。
「今回の件は、皆様にとって辛い出来事だったと思います。ですが、三人の仲間意識に良い変化が現れた様にも思えます」
そう言うと、アークはベネットの方へ近付いていった。
「特にダームは、仲間を守りたいという想いが強くなった様に思えます。その為か、昨日一日の訓練だけでも、随分と剣術の腕が上がりました」
アークは柔らかな笑みを浮かべ、微かに首を傾ける。
「自分が二人を守る。そう言って、息が上がっているのにも関わらず、警備兵の訓練所から帰ろうとしませんでしたから」
アークは、軽く俯きながら目を瞑った。彼の話を聞いたベネットは無言のまま頷き、寂しさと安堵の混じった表情を浮かべる。
「それでは、私は先程話した内容を大司祭様へ伝えて参ります。もし何か有りましたら、遠慮なさらずに御連絡下さい」
アークは、頭を下げながら言葉を紡いだ。アークは、ベネットが軽く頷いた事を確認すると、静かに部屋から立ち去った。
ベネット一人だけとなった部屋は、悲しい程の静寂に包まれた。そして、再び一人きりの時間を過ごす事になったベネットは、アークの足音が遠のいてから悲しそうに息を吐く。彼女は、部屋に用意されていた椅子へ腰を下ろすと、目を瞑って何かを考え始めた。