穏やかな移動
文字数 2,634文字
「この馬車に乗って下さい。移動に時間が掛かりますし、その間ゆっくり休んで下さい」
アーサーは馬車の後方にある戸を開け、車内から踏み台を引き出す。そして、彼は直ぐに馬車の中へ入ると、ベネットの方へ右手を伸ばした。ベネットは、ダームとザウバーの顔を横目で見ると、アーサーの手をとり顔を見上げる。アーサーは、ベネットの手を包み込むように握り、そのまま彼女の手を引いて馬車の中へ誘った。そして、アーサーはベネットへ好きな席に座るよう伝え、馬車の外を眺めた。
「お二人もどうぞ。本来、男性に手を差し伸べたりしませんが、ご希望とあらば致します」
アーサーは、そう話すとザウバーの目を見つめ、そのままぎこちない笑顔を浮かべる。彼の目線に気付いたザウバーは苦笑し、首をゆっくり横に振った。
「野郎にエスコートされるなんて御免だ」
そう言って舌を出すと、ザウバーは馬車へ乗り込んだ。ザウバーは、入口近くで腰を下ろすと、ダームに目配せをした。当のダームは、軽い足取りで馬車に乗り、ザウバーと向かい合うかたちで腰を下ろした。彼は、馬車の中を興味深そうに見回し、目を瞬かせながら声を漏らす。
馬車の中は薄暗く、目を凝らさねばその内装を伺い知ることは出来無い。ところが、アーサーが馬車の中程にある透明の球に手を触れると、車内は瞬く間に明るくなった。そんな光の刺激にダームは思わず目を瞑るが、直ぐに目を開くと車内を観察し始める。
馬車内は、暖かな橙色で統一され、彼が座っている椅子には毛足の長い覆いが掛けられている。また、前方に小窓が有り、そこから御者の姿が垣間見えた。車内を見回したダームが満足そうに背中を傾けると、彼の頭に柔らかな感触が生じる。
ダームが後ろを振り向くと、壁は綿のたっぷり詰められた布で覆われていた。彼は、その感触を確かめる様に右手を触れさせ、それから人差し指を押し当てた。すると、ダームの指先は柔らかな綿に埋もれていき、第一関節まで沈んだ所で止まる。ダームがそうしているうちに、アーサーは部下へ指示を終え、馬車の入口を閉じていた。そして、彼は小窓から御者へ出発の合図を出すと、座席へ静かに腰を下ろす。
程なくして馬車は走り始め、アーサーは安心した様に目を瞑った。ダームは、初めて乗った馬車の揺れに驚きつつも、身を乗り出して前方の小窓から外を眺めようとする。しかし、彼の座る位置から外は見えにくく、ダームは肩を落として座り直した。
「外が気になるなら席を変わろう」
「でも」
「窓に近い席は寒くてな。ここに来たい者が居たら、丁度良いと思ったのだが」
ベネットは、少年の声を遮る様に話すと、微苦笑しながら小窓を一瞥する。ダームは彼女の言葉に首を傾げ、暫く考えてから立ち上がった。
「じゃあ、せっかくだし」
ダームは馬車の前方へ向かい、ベネットは座ったまま体を左側に移動させる。程なくして二人の位置は入れ替わり、ダームは馬車の小窓から外を眺めた。
「すみません、気が利かなくて」
「いや、気を使わなくて良い」
そう返すと、ベネットは車外を眺める少年を一瞥する。その仕草を見たアーサーは、彼女の考えを理解したように頷き、席に座り直した。
十数分後、ダームは外を眺めることに飽きたのか、椅子に座り直した。それを見たアーサーは、安心した様に目を細め、ザウバーは小さく溜め息を吐く。ダームは、膝に手を置いて息を吐くと、目を瞑って馬車の揺れに身を任せた。
「に、しても」
ザウバーは呟く様に声を出すと、アーサーの顔を横目で見る。すると、アーサーは青年の方へ顔を向け、ベネットは微かに顔を上げる。
「警備兵が使うにゃ、いい馬車じゃねえか」
ザウバーは顔を左に向け、アーサーの顔を見た。彼の話にアーサーは微笑し、ベネットに目配せをしながら口を開く。
「これは、教会が所有する馬車です。シタルカー総司令は、教会にも顔がききますので借りてきたのです」
そう返すと、アーサーは笑みを浮かべたまま首を傾げ、そのままザウバーの反応を待つ。ザウバーは、何度か大きな瞬きをしてからベネットを一瞥し、長く息を吐き出した。
「そういうことか」
ザウバーは手の平を上に向けて微苦笑し、静かに椅子へ座り直した。それからグルートに着くまで会話は無く、ダームは馬車に揺られながら眠っていた。彼は、街へ到着した時に目を覚まし、眠たそうに目を瞬かせながら欠伸をする。馬車が止まった後、アーサーが小窓から顔を覗かせると、御者の一人が目的地に着いたことを報告した。グルートに到着したことを確認したアーサーは、直ぐに後方を振り返り、三人へその旨を伝える。
「私はフェアラで起きたことについて説明をしてこよう」
ベネットは直ぐに馬車の戸を開け、目的地へ向かって行く。
「私も、部下達に連絡と指示をしなければならないので馬車を降ります。お二人は如何なさいますか?」
そう尋ねると、アーサーはダームとザウバーの目を見つめ、静かに二人の返答を待った。ダームは、暫く考えた後でアーサーの目を見つめて口を開く。
「僕は、荷物を取ってくるよ。戻ってくるつもりだったから、大きいものは置きっぱなしだったんだ」
そう言って微笑むと、ダームは移動しようと腰を上げた。
「じゃ、俺はダームを手伝ってやるか」
言いながら立ち上がると、ザウバーは二人の反応を待つことなく外へ出る。アーサーは、そんな二人を見送り、御者に馬車から離れることを伝えた。
暫くして、ダーム達は荷物を持って馬車に戻り、彼らはベネットとアーサーの帰りを待ち始めた。ザウバーは、始めこそ起きていたものの、二人が当分戻らないと踏んだのか腕を組んで眠り始める。それに気付いたダームは、つまらなそうに溜め息を吐き、馬車を下りて空を眺め始めた。彼は、十数分もの間そうしていたが、流石に居辛くなったのか馬車の中へ戻っていく。そして、ダームが馬車に戻ってから数分後、ベネットとアーサーは共に彼の元へ戻り、少年は安堵の表情を浮かべた。
「お待たせ致しました。出発しましょう」
そう少年に話し掛けると、アーサーは前方の小窓から御者へ出発の合図を出す。すると、馬車はゆっくり動き出し、アーサーは座席に腰を下ろして一息ついた。