それぞれの役目
文字数 3,384文字
「お早う御座います。大司祭様より、ベネット様を教会へお連れするよう、命を承って参りました」
日が昇って暫くしてから、アークがベネットの居る病室へ現れる。彼は、蒼色の防具に身を包んでおり、その胸元には街の紋章が刻まれていた。
「残念ながら、大司祭様は公務にて挨拶が出来ません。ですから、私、アーク・シタルカーが、護衛も兼ねて部屋まで御案内致します」
アークはベネットの目を真っ直ぐに見つめ、深々と頭を下げた。
「了解した。ただ、ダームがまだ寝ている」
ベネットは少年の顔を見つめ、彼を起こすべきかどうかを暗に尋ねる。
「寝ているのならば、そのままにしておくのが良いでしょう」
アークは、まるで質問に対する答えを用意していたかの様に、淡々と言葉を連ねていった。
「万一、私が戻る前に目覚めたとしても、院長が対処致します。目覚めた後は、警備兵の宿舎にてお預かり致しますので、御心配なさらないで下さい」
アークは、椅子に座っているベネットの前に立つと跪き、純白のグローブに包まれた右手を差し出した。ベネットは、暫く目を瞑って考えた後、踏ん切りがついた様子で細く長い息を吐く。
「了解した。ダームのことは、貴殿に任せよう」
ベネットは、差し出された手に自らの手をそっと添えた。
「それでは、御案内致します」
アークは差し出された手を優しく掴むと、その手の甲にそっと口付けをする。その後、彼は立ち上がって一歩後退し、手を胸に当てながら深く頭を下げた。
それから、アークはゆっくりと頭を上げ、茶褐色の瞳でベネットの顔を愛おしそうに見つめる。彼は、微かに笑顔を浮かべた後、静かに彼等が居る病室のドアを開ける。そして、その仕草によって、ベネットに外へ出るよう伝えた。促されるままベネットが病室の外へ出ると、アークは彼女の前に立ち頭を下げる。
「街の中とて、様々な危険が潜んでおります。くれぐれも、私の傍から離れないよう御注意下さい」
アークは、いつになく真剣な表情で言うと、踵を返して歩き始めた。ベネットは、そんな彼の後を静かに追い、アークは時折後ろを振り返りながら進んでいく。
「こちらが、ベネット様の部屋で御座います。こちらの部屋は、中から鍵を掛けることが可能ですし、生活に必要な設備も揃っております。また、御食事は教会へ従事している者に作らせますので、こちらも御心配なさらないで下さい」
ベネットを目的地へ案内し終えたアークは、部屋や食事についての説明を簡単に述べた。その部屋には、大きめのベッドが置かれ、その手前には木製のテーブルや椅子が用意されている。また、アークの背丈よりも大きなクローゼットも在り、部屋の奥には洗面所へ続くドアもあった。
「生活面については了解した。ところで、ダームやアークと連絡を取る場合は、どうすれば良い?」
「私は、警備兵の執務室に遣いを出して頂ければこちらから伺います。また、ダームは警備兵の宿泊施設に滞在予定なので、何か伝えたい事が有りましたら、私から連絡します」
そう返すと、アークは軽く握った右手で胸を叩き、ベネットの顔を見つめながら笑顔を浮かべる。
「そうか。それならば、心配は要らないな」
ベネットは、そう言うと胸に手を当て、細く息を吐き出した。
「他に、何か質問は御座いませんか?」
ベネットが安堵の表情を浮かべる一方、アークは事務的な物言いで問い掛ける。ベネットは片目を細め、無言のまま彼に返す答えを思考した。
「いや、他に質問は無い」
「それでしたら、私はこれにて失礼致します。気持ちの整理がつきましたら、何時でもお呼び下さい」
アークは深々と頭を下げ、部屋から立ち去った。一方、一人残されたベネットと言えば、彼の足音が遠のいていった後で鍵を閉める。すると、緊張が解けて肩の力が抜けてしまったのか、ベネットはその場に力無くしゃがみ込んでしまった。
暫くして、ベネットは何かを吹っ切る様に立ち上がり、部屋の奥へゆっくりと進んでいく。ベネットは、ベッドへ倒れ込む様に横になると、枕に顎を乗せぼんやりと白い壁を見た。
大気が太陽の熱で暖まった頃、ベネットは枕を抱えながら窓の外を眺める。そうしているうちに、外界は闇に包まれたが、それでもベネットは、ベッドに横たわったまま窓の外を眺め続けていた。
ベネットは、夜になってからベッドを離れ、おぼつかない足取りで洗面所へ向かっていく。彼女は、涙で汚れた顔を静かに洗い終えると、洗面台の背面にあるバスルームへ目線を移した。その後、ベネットは白を基調にして造られた浴室内を見つめ、数回深呼吸をしてから浴槽へ湯を溜め始める。
湯が足首まで浸かる程に溜まった頃、ベネットは寝室に戻り、人が入れる程に大きなクローゼットを開いた。そして、彼女は軽く身を屈めると、無言でその中を探り始める。
ベネットは、クローゼットの中から室内着やタオルを見つけ、それらを抱えて浴室へ向かった。それから、ベネットは一度大きな溜め息を吐くと、浴槽に湯が溜まったかどうかを確認せず、衣服を脱ぎ始める。脱衣により露わになった肌は白く、その何処にも目立った傷は残っていない。また、上衣を脱ぐ際に乱れた髪が顔に張りついたが、ベネットはそれを掃おうとはしなかった。
ベネットは、脱いだ衣服を床に置くと、立ち上る湯気で視界が遮られた浴室に入った。彼女は湯に手を浸し、半分程湯が溜まった浴槽へゆっくり体を沈めた。湯に浸かったベネットは、湯船の中で膝を引き寄せ、目を瞑る。嵩を増していく湯はベネットの髪を湿らせ、その頬を火照らせていった。
暫くして、温かな湯がベネットの肩まで届いた頃、彼女は目を開いて、湯を止める。ベネットは、腕を軽く前に伸ばすと、辛うじて呼吸が出来る位まで、体を浴槽に沈めた。
何度かゆっくりとした呼吸を行った後、ベネットは再び目を瞑り、躊躇う事無く大粒の涙を零した。彼女は辛そうに目頭を押さえると、その涙を流す様に数回バスタブの湯で顔を拭う。涙を拭ったベネットは、何かに対して踏ん切りがついたのか、顔に添えた手を離す事無く、声を殺して泣き始めた。
それから数分後、ベネットはおもむろに立ち上がり、その長い黒髪をシャワーから流れ出す湯で丁寧に濡らし始める。
ベネットは、髪が完全に濡れてしまう前に浴室を出ると、荷物を寝具の上へ広げていった。そして、彼女は移動中に携えている短刀を取り出す。それから、その刀身を鞘から引き抜き、刃をゆっくりと口にくわえた。
ベネットは、髪を頭の後ろで纏めると、短刀の柄を握り締めた。彼女は、その短刀を纏めた髪の下にあてがうと、短刀を握っていた手を勢い良く上方へ振り上げる。
それから暫くの間、ベネットは切り落とした髪を握ったまま立ち尽くしていた。彼女は、ベッドサイドに置かれた屑籠へ目線を落とすと、そこに自らの髪を捨てる。その後、ベネットは短刀に付いた水分を丁寧に拭い、刀身を鞘へ収めた。
そして、彼女は何事も無かったかの様に浴室へ戻り、短くなった髪を洗い始めた。その際、屑籠に捨て切れなかった髪が湯と共に流れていったが、ベネットはそれを気に留める事無く、自らの髪を洗い続けていく。
ひとしきり髪を洗い終えたベネットは、浴室に用意されていたスポンジを掴み、体を洗い始めた。そして、青年に付けられた傷があった場所まで手を動かすと、細く目を開いて溜め息を吐く。
「赦し、か」
溜め息混じりに呟くと、ベネットは体に泡を付けたまま、浴槽に体を沈めた。その後、頬が紅潮する程に体を温めると、彼女は浴槽を出て脱衣場へ向かっていく。脱衣所に移動したベネットは、柔らかなバスタオルに身を包むと、ゆっくり体を拭き始めた。
一通り体を拭き終えた後、ベネットは用意しておいた着替えを身に着け、静かに寝室へ戻った。寝室に戻ったベネットは、硝子で出来た部屋の窓を開けると、夜空に広がる星達を見上げて笑い始めた。
「私も、まだまだ未熟だな」
暫く夜空を眺めた後で、ベネットは眼前の窓を閉める。そして、彼女はベッドに腰を掛けると、濡れた髪を乾かし始めた。