魔族の勧誘
文字数 2,092文字
彼が言い放つと、使い魔の刃は素早く女性の眼前へ移動する。この時、女性は強く目を瞑り、そのまま体を強ばらせた。黒い刃は、その切っ先を女性の喉元へ向けると、容赦なく胸骨の下端まで女性の衣服と皮膚を切り裂いていく。その刃は、一撃で骨まで達しており、女性の胸元は徐々に血の色で染まっていった。その痛みに女性は苦しみの声を上げ、がくりとうなだれる。
「傷をつけるだけじゃない……ってやつ? だって、君は痛めつけただけじゃ、堕ちてきてくれそうに無いから」
ヴァリスは、女性の右肩へ手を添えると、胸元に付けられた傷を下から上に向かって舐めていく。それから、彼は左の鎖骨に舌を這わせると、右手で女性の上着を除けながら、その肩口へ口付けをした。
それから、ヴァリスは肩口に触れていた唇を離すと、静かに女性の顔を覗き込んだ。
「堕ちてきてくれないなら、力ずくで堕としてあげるよ」
艶笑を浮かべると、ヴァリスは指先で女性の唇を優しくなぞる。女性は、ヴァリスの行為に対して眉をひそめると、目を瞑り彼から顔を背けた。
それを見たヴァリスは楽しそうに笑い、女性の顎を強く掴む。そして、彼は力ずくで顔を自分の方へ向けさせると、じっと女性の瞳を見つめた。この際、女性は驚いた様子で目を泳がせるが、唇を噛むと直ぐにヴァリスの顔を見据えた。
「良いねえ……その眼差し」
そう言うと、ヴァリスは自らの上唇をゆっくり舐める。
「君の全てを、僕だけのものにしてしまいたい位だよ」
ヴァリスは、顎を掴んでいた手を離すと、女性の肩へ左腕を乗せる。そして、彼は手を女性の後頭部へ伸ばすと、その黒髪を指に絡めた。
「ねえ、僕のものにならない? そうしたら、仲間の子を解放してあげてもいいんだけど」
彼の発言に女性は目を丸くし、訝しそうな表情を浮かべる。
「悪い条件じゃないと思うけど? 君は束縛から解放されるし、仲間の子だって自由になれる」
そう話すと、ヴァリスは右手の指先で、女性の首に刻まれた傷をなぞっていく。
「君が僕のものにならないって言うなら、二人共死ぬだけ。どっちが君にとって有益か……答えは簡単じゃない?」
彼は、女性の瞳を真っ直ぐに見つめると、指先に力を込め冷笑を浮かべる。女性は、その痛みに強く目を瞑り、歯を食いしばった。
「貴様の言うことに、嘘が無いならばな」
女性は大きく咳払いをすると、ヴァリスの瞳を見つめ返す。
「そもそも、仲間が生きている保証はあるのか? それに」
「逆に聞くけど、僕の条件を飲まないで、二人共助かる方法は?」
ヴァリスが、女性の言葉を遮る様に話し出すと、使い魔は女性の背中を大きく切り裂いた。右肩から肋骨の左下端にかけて刻まれた傷は、温かな体液を女性の衣服へ滲ませている。
「質問を質問で」
「今、主導権を握っているのは僕だよ?」
愉しそうに言うと、ヴァリスは憫笑を浮かべながら女性の首へ手をかけた。
「君を、生かすも殺すも僕の自由。分かっているよね?」
ヴァリスが手に力を込めると、彼の爪は女性の首へ食い込み、弧状の傷を刻み込む。すると、女性は苦しそうに涙を浮かべ、何もやり返せないまま悔しそうな表情を浮かべた。
ヴァリスは、女性の脈拍が弱くなった頃合いを見計らって手を離すと、勝ち誇った様な笑みを浮かべる。一方、女性は力無く頭を垂れ、苦しそうに震えながら咳き込んだ。
「それで? 君の出す答えは?」
そう言うと、ヴァリスは女性の濡れた前髪を掴んで引き上げる。女性の息は大きく乱れ、褐色の瞳は虚空を眺めていた。
「言ったと思うけど、逃げる方法を考えたって無駄だよ? もっとも……そんな状態じゃ、まともに考えることも出来ないだろうけど」
ヴァリスは、髪を掴んでいた手を離すと、女性の胸元に刻まれた傷を指でなぞっていく。女性は、その刺激に反応を見せることなく、ただただ苦しそうな呼吸を繰り返していた。
この為、二人の間には無言の時が流れ、ヴァリスはつまらなそうに溜め息をつく。そして、ヴァリスが苛立った様に舌打ちをした時だった。
「うわっ!」
子供のものと思しき叫び声が、彼の後方から発せられた。声には、驚きと苦しみが入り混じっており、その声が途切れると共に、何か質量のある物体を叩き付けたような鈍い音が響き渡った。それらの音へ反応する様に女性は目を見開き、ヴァリスは訝しげな表情を浮かべた。
暫く考えた後、ヴァリスは何かを思い付いた様に口角を上げる。彼は、女性の顎を掴むと、その耳元へ自らの唇を近付けた。
「予定変更。君を可愛がるのは後にして、邪魔した奴を殺すことにする」
ヴァリスは一歩後退し、女性の瞳を見つめる。それから、彼は静かに踵を返し、扉の方へ進んでいった。一方、女性は唇を強く噛み、怒りのこもった眼差しでヴァリスの背中を見据える。
彼女は、大きく息を吸い込むと、ヴァリスを見据えたまま小さな声を発していった。そして、その声を発動条件とするように、女性の体は白い光に包まれていく。その光は、段々と強さを増していき、ヴァリスは扉へ手をかける前に女性の居る方を振り返った。