院長権限による管理職の強制息抜き
文字数 2,967文字
ルキアは立ち上がり、ゆっくりアークの方へ近付いていく。
「しけた顔しちゃって……特別治療が必要なようね」
ルキアは艶笑を浮かべ、アークは目を丸くする。
「先ずは、各種薬草を漬け込んだお酒を……それから、栄養価の高いナッツ類にチーズも摂取して頂こうかしら」
そう伝えると、ルキアは病室のベッドに掛けてあった布団を勢い良く剥いだ。すると、その下からは大きめの瓶と、蓋付きの木箱が現れる。ルキアは木箱の蓋を開け、そこから硝子製のコップを取り出す。彼女は、そのコップへ瓶の中身を並々と注ぐと、それをアークへ差し出した。
アークは、戸惑った様に微苦笑した後、差し出されたコップを受け取った。コップを渡したルキアは満足そうな笑みを浮かべ、それから別のコップに液体を注ぐ。
「呆けてないで座りなさい。生気のない顔しちゃって」
そう言い放つと、ルキアは右手でベッドの開いたスペースを叩いた。一方、アークは彼女の示した場所に腰を下ろし、横目で木箱の中身を確認する。木箱の中には、煎った後に塩で味付けられた種子や、獣の乳を凝固させたものが入っている。それらは、円形の陶器に分けて入れられており、その端にコップが入れられていたらしき隙間が開いていた。
「乾杯」
そう言うと、ルキアは手に持ったコップをアークの方へ向ける。彼女の仕草を見たアークは、コップ同士を軽くぶつけた。それから、彼はルキアと顔を見合わせ、コップに口を付けた。
「これは」
「二日酔いになったら看てあげるから、仕事のこととか面倒臭いしがらみとか忘れて飲め」
院長は瓶を掴み、その中身を嵩の減ったアークのコップへ注ぎ入れる。この際、注ぎ過ぎた液体が零れるが、ルキアは気にすることなく笑みを浮かべた。
「ほら、飲んだ、飲んだ。医者の治療が受けられないなら、退院許可を出さないから」
院長の話を聞いたアークは苦笑し、注がれた飲料を飲み干す。すると、それを見たルキアは直ぐに空のコップへ液体を注ぎ、アークは喉を押さえながら息を吐き出した。
「少しは手加減して下さいよ。薬の効果は、用法用量を守ってこそでしょう?」
アークは苦笑しながらルキアの顔を見つめる。この時のアークの目は赤く、喉が焼けてしまったのか声は枯れていた。
「なによ、私の注いだ……じゃなかった。私の治療が受けられないとでも?」
院長は液体の入った瓶を持ち上げ、自らのコップへ酒を注いだ。彼女は、それを軽く飲み干してみせると、笑いながらアークの目を見据える。
「子供じゃ無いんだから、飲みなさいよ」
ルキアはアークの腕を掴み、コップの中の酒を飲ませようとする。アークは、初めこそ彼女に抵抗してみせるが、渋々ながらコップの中身を飲み干した。
「そうそう。ちゃんと飲めないと、部下にもなめられちゃうわよ」
院長は、そう言うや否やアークのコップへ酒を注ぎ、大きく息を吸い込んだ。そして、微かに目を細めると、眠そうに欠伸をする。
「そうそう、飲むだけじゃなくて食べて。せっかく用意してあるんだから」
そう伝えると、ルキアは煎られた種子を掴み口に投げ込んだ。彼女は、それを咀嚼によって細かく砕きながら、アークも食べるよう目線で伝える。
彼女の目線に気付いたアークは木箱に手を伸ばし、そこから何粒かの種子を取り出した。彼は、それを一粒口に入れると、その味を確かめる様にゆっくりとした咀嚼を始める。
「まあ、あれよ。人には、それぞれやらなきゃならないことが有って、大変な事だろうと、それをこなさなきゃならなくて」
ルキアは片目を瞑り、何度か深呼吸を行った。
「私は診察に治療、アークは治安維持……あの子にはあの子の仕事がある。それは、分かっているでしょう?」
アークは頷き、彼の仕草を見た者は大きく息を吐き出した。
「分かってはいますよ。それが力を持つ者の定めであることも、その仕事を放棄したらあの方が居場所を失うだろうことも」
アークは目を伏せ、コップを持つ手に力を込めた。
「それでも、倒れる姿を見る度に苦しくなるのです。頭で理解してはいても、心が付いていかない」
ルキアは鼻で笑い、ゆっくり首を横に振る。
「そう考えている様じゃ駄目ね。そりゃあ、やりたくもない仕事に就いている奴も居るけど、アークは渋々街を守っているの?」
そう問うと、院長はアークの居る方へ体を向けた。アークは彼女の迫力に押されたのか、目を丸くしながら言葉の続きを待つ。
「違うでしょ? そりゃあ、時には嫌なこともやらなきゃだけど……それ以上にやりたいことがある。だから、今の仕事を選んだんじゃないの?」
アークは、何か思い出した様に口を開き目線を落とす。彼は、院長の言葉を無言で反芻した後、息を吸い込みながら顔を上げた。
「ルキアの言う通りです。私は、仕事に矜持を持っています。それに、辛いことがあったとしても、それ以上のやりがいがある。だからこそ、長年勤められた」
そこまで話すと、アークは自虐的な笑みを浮かべた。
「あの方も、そうなのでしょう。今は、他にやるべきことを抱えてはいますが」
アークは目を瞑り、左手の指先で目頭を押さえる。そして、静かに息を吸い込むと、彼は目頭を押さえた手を離して息を吐き出した。
「今は難しいことを考えるより、楽しく飲んで食べなさい。それに、あの子だってもう大人なんだし、いちいち心配されたら鬱陶しく思われるわよ?」
そう話すと、ルキアはアークの背中を数回叩く。背中を叩かれたアークは苦笑し、微かに目を細めた。
「鬱陶しい……ですかね。昔からの付き合いなので、どうしても子供に見えてしまうというか。初めて会った時のことが、脳内に焼き付いていると言いますか」
アークは目を瞑り、俯きながら大きな溜め息を吐く。
「もう、十分に強くなられているのは分かっているんです。それでも、この街に帰ってくる理由が」
「あー……はいはい。どうせなら、元気な時にもってね」
アークの言葉を遮る様に話すと、ルキアは乱暴に自らの頭を掻いた。その後、彼女は自らのコップに液体を注ぐと、半ば苛立った様子でそれを飲み干す。
「そりゃあ確かにそうだけど、人生そうそう良い様には行かないって」
院長は大きく息を吸い込み、気怠そうに欠伸をする。
「さて、治療も大体終わったし、私は帰る」
ルキアは持っていたコップを木箱に戻し、ほぼ空になった瓶を掴む。そして、木箱の蓋を閉めると、立ち上がってアークの目を見つめた。
「あんたの持っているコップは、適当に使ってやって」
院長は、箱を抱え微笑する。
「じゃ、またね」
軽い口調で話すと、ルキアは踵を返して歩き始めた。この時、飲んだ酒が廻ってきたアークは、無言で彼女を見送った。部屋を出たルキアの足音が聞こえなくなった頃、アークはコップに残っていた液体を一気に飲み干す。そして、彼は生暖かい息を吐き出すと、空のコップを洗面台に置く為、歩き始めた。
この時、アークの足取りは覚束ず、目は眠たそうに閉じかけていた。それでも、アークはコップを洗面台に置き、直ぐにベッドの方へ戻っていく。ベッドへ戻ったアークは仰向けになり、ゆっくり息を吐き出した。そして、彼は静かに目を瞑ると、部屋の照明も消さず眠りに落ちてしまう。
闇を食らう者:翠 に続く――