不器用な気遣い
文字数 3,718文字
女性は、まるで彼が振り返るのを待っていたかの様に、力強く呪文を唱えた。すると、女性の頭上に幾つもの光の十字架が現れ、閉ざされた空間は光で満ちた。光の十字架は、あらゆる方向へ飛んでいき、その十字架が触れた瞬間、女性を拘束していたものは消え去った。この時、ヴァリスは動じる様子を見せること無く微笑すると、小さく指を打ち鳴らす。
すると、ヴァリスの背後にあった扉が、彼を守る様に二人の間へ移動する。その扉は、彼の代わりに十字架を受け止めると、蒸発する様に消え去った。
程なくして全ての十字架が消えた時、女性の体を包んでいた光も消える。女性は、背後の岩壁に寄りかかると、虚ろな瞳でヴァリスを見つめた。その瞳に力は無く、絶望さえ浮かんでいた。
ヴァリスは、自らの顎に手を当て、女性の顔を真っ直ぐに見つめる。
「なる程、君が」
そう言って微笑すると、ヴァリスは女性の方に歩み寄った。
「今日は、これ位にしておいてあげる。抵抗する気力の無い子を虐めても、つまらない」
彼は、女性の左頬に手を触れると、親指で柔らかな唇をなぞっていく。すると、女性はまるで体の力が抜けてしまったかの様に、その場で静かに膝をついた。
「じゃあね。今度会ったら、もっと可愛がってあげる」
ヴァリスは冷笑を浮かべると、音もなくその場から消え去った。一方、女性は顔を上げ、前方の様子を確認すると、震える手を前方に伸ばした。しかし、彼女はその指先を痙攣させると、目を瞑り俯けに倒れ込んでしまう。
それから、幾ばくかの時が流れた後、慌てた様子で走る足音が聞こえた。その足音の主は、女性がいる部屋の前で立ち止まると、そこで倒れていた少年の肩を掴んで激しく揺さぶった。すると、少年はうっすらと目を開き、何度か瞬きをした。
少年は、意識をはっきりさせる為に頭を振り、男の顔を見上げた。少年の目は、若干焦点が合っていなかったが、その顔色は良かった。そのせいか、少年の様子を見た青年は、安堵の表情を浮かべる。
「いちいち驚かせるんじゃねえよ」
少年は恥ずかしそうに目を反らすと、呟く様に謝罪する。
「で、何があったんだ?」
明るい声で問うと、青年は少年の顔を覗き込む。問い掛けられた少年と言えば、目を見開き、青年の体を避けて斜め前方を指差した。彼の指差す先には、俯せに倒れ込む女性の姿があり、その周囲に決して少なくない量の血液が飛び散っていた。
訝しげな表情を浮かべると、青年は乱暴に後頭部を掻きながら少年の指差す先へ目線を移した。そして、青年の目に女性が映し出された瞬間、彼の表情は一気に曇り、そのまま暫く静止する。彼は、大きな呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けると、女性の方に歩み寄った。
青年は、女性の背中や首に刻まれた傷に驚きつつも、彼女の傍らで膝をついた。そして、彼は恐る恐る女性の左肩に触れると、何度か小さく揺さぶった。しかし、女性が何らかの反応を見せることは無く、青年はつらそうに目を細める。この時、少年も心配そうに様子を眺めていたが、体が上手く動かないのか立ち上がることはなかった。
青年は、暫く考えた後で女性の両肩を掴むと、注意しながら女性の体を起こしていった。そして、彼は女性を抱き起こすと、その胸元に残された傷を見て唇を噛む。
彼は、自らの上体で女性の体を支えると、なるべく大きく動かないようにして上着を脱いでいった。その後、彼は脱いだ服を右手で掴むと、優しく女性の背中にかけていく。
青年は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた後、背中にかけた服を着せようと試みた。しかし、彼のやり方が悪いのか、何度試しても上手くいかず、ついには上着を地面へ落としてしまう。この為、彼は情けなさそうに俯くと、地面に落ちた上着へ手を伸ばす。
ところが、上着は僅かながら青年の手が届かない位置に落ちており、それを拾うには体の向きを変えねばならなかった。青年は、気怠そうに溜め息を吐くと、女性の体を支えながら体の向きを変えていく。
その手が上着に届いた瞬間、青年はバランスを崩し、横向きに倒れ始めた。彼は、慌てて体を捻ると、女性の下敷きになる形で仰臥姿勢を取る。彼は、堅い地面に背中を打ち付けたせいか、痛そうに強く目を瞑った。そして、青年は改めて上着を掴み取ると、女性の背中へ静かにかける。
この際、一連の様子を見ていた少年は、慌てて二人の元へ駆け寄ろうと試みた。しかし、彼は数歩進んだ所で、小石に躓き転んでしまう。その一方、青年は仰向けの姿勢のまま少年の方を見た。
「大丈夫か? 本調子じゃねえなら、無理すんな」
対する少年はゆっくり立ち上がり、服に付いた汚れを払いながら苦笑する。
「この位、平気だよ。ザウバーこそ大丈夫?」
そう言って、彼はゆっくりと青年の元へ歩み寄った。
「ああ、俺はな」
ザウバーは女性の体を抱えたまま起き上がる。すると、彼らの声に反応したのか、女性はうっすらと目を開いた。彼女は、何度か瞬きを繰り返すと、無言でザウバーの顔を見上げる。
女性は、小さく口を動かすと、ザウバーの胸に手を当て、そのまま後方へ下がった。すると、その動きによって背中に掛けられていた上着は落下し、女性は反射的に後ろを振り返る。
「その……なんだ。あまりにも切られ方が酷いから、保護だ保護。体も冷えてたしな」
ザウバーは、女性の考えを察して話し出すが、その目線は落ち着き無く動いていた。そして、彼は落ちてしまった上着を拾い上げると、無言でそれを女性に手渡す。しかし、上着を受け取りはしたものの、女性にそれ以上の動きは無く、ザウバーは困惑した様子で頭を捻った。
「汚くて着れねえか?」
女性の気持ちを考えながら、ザウバーは何とか言葉を絞り出す。
「それとも」
困惑しているせいか、彼は少し話したところで言葉を詰まらせてしまった。
「血」
すると、女性が申し訳なさそうに話し出し、ザウバーの顔を見た。
「酷い切られ方なら、出血も酷いだろう? その状態で着たら、汚してしまう」
そこまで話すと、女性は持っていた上着をザウバーへ差し出した。ザウバーは、驚いた様子で口を開けると、掌を女性の方へ向け、上着ごと押し返す。
「その位、構わねえよ。どうせ、買い替え時だしな」
明るい声で伝えると、ザウバーは女性に気を使わせまいと笑ってみせる。
「それに……あれだ。走り回ったから汗だくでよ、それを着ていると暑いんだ。けど、脱いだ服は手荷物になる」
たどたどしく言葉を加えると、ザウバーは大袈裟に体を扇いでみせる。
「だったら、体が冷えている奴に着せれば良し。あれだ、一石二鳥ってやつだ」
言い終えると、ザウバーは大きな瞬きを繰り返しながら女性の顔を見つめた。すると、女性は思案顔になり、手に持っている上着を一瞥する。
「それ位、自分で持っていれば良いじゃん。ベネットさん、困っているみたいだし」
計画に水を差されたザウバーと言えば、少年の方を振り返ると苛立った様子で溜め息を吐く。そして、彼は少年の瞳を真っ直ぐに見据え、その肩を強く掴んだ。
「ちったあ空気読め」
ザウバーはダームの肩を掴んだまま、少年の耳へ口を近付ける。
「無防備に肌を晒すべきじゃねえんだ。そういう相手以外にはな」
至極小さな声で話すと、ザウバーは肩を掴んでいた手を離して後退する。そして、彼は余計なことを言うなと言わんばかりに、少年の目を見据えた。
「そういう相」
ザウバーは、慌てて少年の口を塞ぐと、押し倒しそうな勢いでその体にのしかかった。
「とにかく……あの姿のまま、あちこち歩き回る訳にはいかないよな?」
彼は、半ば脅しをかける様な声色で、少年に言葉を投げかけていく。ダームは、目を白黒させながらザウバーの顔を見ると、何度か小さく頷いた。すると、ザウバーは少年の口から手を離し、満足そうに微笑する。それから、彼はベネットの方を振り返ると、気まずそうに歯を見せて笑う。ベネットと言えば静かに目を瞑り、ゆっくり首を上下に動かした。
「成る程な。確かに、この姿のまま歩き回るのは賢くない」
ベネットは、それだけ話すと、抱えていた上着に腕を通した。彼女は上着を着終えると、ザウバーの顔を見る。
「気遣ってくれて、ありがとう。街に戻ったら、礼をさせて欲しい」
ベネットは、目を細めて伝えると、ザウバーの考えを窺う様に首を傾げた。
「いや、礼は要らねえよ」
ザウバーは、気持ちを落ち着ける為に目を瞑る。そして、彼は長く息を吐き出し、心配そうにベネットの目を見つめる。
「それより、大丈夫なのか? あちこち怪我してるみてえだけど」
そう問い掛けると、ザウバーはベネットの首に刻まれた傷を一瞥する。すると、ベネットは自らの傷に手を触れた。
「致命的なものではないし、出血も止まった。心配する程のものではない」
ザウバーは、彼女の言葉を聞いて安堵し、それから深く頭を下げた。
「悪かった」
絞り出すように言うと、ザウバーは頭を下げたまま強く目を瞑る。この際、ベネットは彼が何を言っているのか分からず困惑し、ダームと顔を見合わせた。