第75話 主人公(2) Hero

文字数 1,692文字

 さすがはゲーテだ。頭がいい。ニーチェは感心した。
 幻影カミーラが斬られた瞬間、さらなる幻影をかけ、無数のコウモリへと変化させる。コウモリは部屋中に散らばり、机の真ん中に置かれていた大きな箱の上で、元の姿に戻った。幻影カミーラは、箱の上ら腰をかけている。淑やかで細い足を組ませ、微笑みを浮かべさせる。ゲーテに対する挑発だ。
「彼女を殺さないでくれたまえよ、ゲーテ君」
 ニーチェは、自分の言動が芝居がかってきた。ますます楽しくなる。自らも、ゲーテに近づいていく。もちろんすでに、自分の姿の幻影を置いてあり、自分の身は透明にしている。ゲーテは、ニーチェの幻影を、じっと見つめていた。
 ニーチェは、簡単にゲーテの背後をとり、首筋に、『エリクシール・ポワゾン』を吹きかけた。このFDは、特殊効果を持つ。『エリクシール・ポワゾン』を使用できる錬金術師なら、相手に幻覚を見させる効果を発揮する。だが、使用できない者に『エリクシール・ポワゾン』をかけると、遅効性の麻痺毒効果を持つ。カミーラとクリスティアーネの二人の血液で作られただけのことはある、癖のあるFDだ。
 ゲーテは、喋ろうとして首を捻った。
「オポポ。ようやく効いたようですねぇ。貴方が仕込んだ、対アルカディアン用の弱毒性の薬。私が香水にして、対錬金術師用に変えさせてもらいましたよぉ」嘘でもなんでも言いたい放題だ。面白ければそれでいい。ゲーテを動揺させられれば、それだけで嬉しい気持ちになる。
 ニーチェは、ゆっくりと、動けないゲーテに近づいた。髭の生えた顎を撫でる。
「こんなところで私を殺しても、貴方は、英雄にはなれません。証人を連れて、古城へおいでなさい。貴方と私にふさわしい舞台を、用意しておきましょう」
 物語は、作者の思惑通りに進んでいる。ニーチェは、ゲーテの肩を軽く叩き、そのまま大広間から出ていこうとした。だが、扉の前で立ち止まる。もうすぐ、ゲーテとは会えなくなるのだ。その前に、色々な表情を見せてもらいたい。そして、自分の心に残された人間の欠片も、ここで、完全に消し去ってしまいたい。
「あ、忘れておりました」
 ニーチェは、嬉しそうに振り向いた。机の上の、箱に手を置く。
「この箱の中に、貴方へのお土産を用意しておきました。貴方もきっと、喜んでくれることでしょう。あの、変態貴族のようにね」
 幻影カミーラは箱から降り、ニーチェの後ろに立って微笑む。
「ニーチェ……」
「まだ喋れますか。すごいですねぇ。さすがは、私の親友です」ニーチェは、わざとらしく、驚いた顔をした。
「まだ、間に合う。今回の事件。お前がやったという証拠を、全て、隠滅すればいい。まだ、間に合うんだ……」ゲーテは、こんな状況だというのに、ニーチェのことを考えてくれている。ここまでの事件を起こし、ここまでゲーテのことを馬鹿にしたにも関わらず、まだ彼は、ニーチェのことを守ろうとしてくれている。
 だが、愛を知ってしまったら、『ニーベルングの指環』の効果は切れる。効果が切れれば、二度と発動できなくなる。人間の心よ、現れるな。ニーチェは必死で、自分が悪役であることに徹した。
「いいえ。もう、間に合いませんよ」
 ニーチェは、机の上に置かれた大きな箱のリボンを引いた。箱が開かれる。中には、横たわった若い女性がいた。部屋中に、甘い匂いがいっそう広がる。
「クリス!」
 ゲーテは、動けない体で叫んだ。だが、クリスティアーネは動かない。
「ゲーテ。私は、貴方からクリスを奪ってしまいました。もう、醜い人間には耐えきれませんでした。そう。私は、人間を辞めました。人間を、辞めたのですよぉ。ゲーテ君」
「ニーチェ、おまえはだまされてる!!」ゲーテは、ニーチェの人間に向かって、なおも叫んだ。
 だが、もう、何も感じない。この瞬間、ニーチェは、完全に自分が人間の心を失ったことを感じた。ゆっくりと、首を横に振る。
「いいえ。ラインの黄金は開幕いたしました」
 ニーチェは、幻影カミーラに微笑ませた。
「もはや、言葉はいりません。友よ。古城で待ってます」ニーチェは、そう言い残し、大会議室から出ていった。
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