第63話 ワニのおもちゃ(2) Toy of Crocodile

文字数 1,450文字

 ふくよかなポッテリとした唇。瞬間、ニーチェは思い出した。自分の腕に押し当てられるカミーラの、あの、薄くて冷たい感覚。あの、痛みを伴う快楽。
 クリスティアーネと唇を重ねたまま、ニーチェの頭の中で、何かが覚醒した。まるで、脳を包んでいた薄い膜が破れたかのようだ。そして気づいた。人差し指につけていた指輪、『ダスティネイル』が、勝手に発動して爪を伸ばし、クリスティアーネの首筋に突き刺さっていることを。
 Fは普通、本人のオーラと創造力によって発動される。テレビと一緒で、スイッチをつけない限り、勝手には動かない。だが、『ダスティネイル』は確実に作動している。クリスティアーネの心地よい青い血が、ニーチェの体内を残らず浄化していく。まるで、汚い屋敷を動き回るルンバのようだ。このまま身を委ねたい。
 だが、ニーチェが大変な事態だと気付くのに、そう時間はかからなかった。血を吸っているということは、同時に、クリスティアーネがミイラと化すことを意味している。『ダスティネイル』は、そういう効果を持つFなのだ。
 ダメだ。嫌だ。クリスティアーネを殺したくない。やばい。止まれ。止まるんだ。ニーチェは必死に、快楽から逃れようとした。動かない左手を無理矢理、クリスティアーネから引き剥がそうとする。彼女はすでに、眠っている。
 う、う、う、動けーっ!! ニーチェはクリスティアーネの首筋から、自分の体ごと『ダスティネイル』を抜き取った。
 大丈夫か? 床に転がったニーチェは素早く立ち上がり、クリスティアーネを覗き込む。幸い、ミイラ化はしていない。だが、青白い顔のまま動かない。蝋人形のようだ。ニーチェは、クリスティアーネを軽く揺さぶった。
「クリス?」
 返事がない。
「クリス? クリス」やはり反応がない。
「ク、ク、ク、クリスゥゥゥ」こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ。ニーチェは、クリスティアーネを激しく抱きしめた。
「おおお。おおお」普段感情を表に出さないニーチェは、この、激しく突き上げてくる衝動を、どう表現すればいいのか分からない。身体表現において、天才は無様な動物だった。
 だが、以前カミーラが死んだと思った時とは違う。ニーチェの心とは裏腹に、体内に力がみなぎってくる。クリスティアーネの全精力が、死んでもなお、自分の体内で輝いているようだ。カミーラの毒も、完全に消えている。『ワニのおもちゃ』を使えば、カミーラの除毒も成功するだろう。そこには自信しかない。
 だが……。僕は、クリスティアーネを殺してしまった。二人しかいない友のうちの一人を殺してしまった。これはいけないことだ。ニーチェは、無理やり悲しもうとした。それでも、健康になっていく体に浮かんでくる感情は、こんな状況だというのに、健全な感情になってしまう。
 嗚呼。僕はもう、人間ではない。人間ではない。僕は、僕は……、人間を辞めてしまったようだ。人間の心が死んでしまった。吸血鬼の心になってしまった。
 そうでもしないと、ニーチェの精神が耐えられなかったのかもしれない。だが、健康な体と精神を手に入れて、ニーチェは誓った。もう、愛などいらぬ。この世界も捨てる。クリスティアーネを体内に宿し、カミーラを救い、自分は誰もいないところへと引きこもろう。
 ただ、一人残った友に対しての恩返しだけはする。それが人間と接する最後だ。それで、人間の欠片を全て捨てさる。自分から、心身ともに、本物の吸血鬼へと生まれ変わろう。ニーチェは、赤マントを勢いよく翻した。
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