第38話 砂埃 Dust

文字数 1,659文字

 こうして、何事もなく、二ヶ月が経過した。
 ニーチェは、GRCに入団して以来、毎朝の日課として、ドイツ流戦場武術カンプフリンゲンと、剣術の練習を、必ず二時間、おこなっている。そのため、元々の体の線は細いが、体力と筋力はそこそこある。体が強くなければ、長時間の集中ができない。結果として、良い研究成果が生み出せない。健康は、錬金術師にとって、一番大事な項目の一つだ。
 もう、四月も中頃だ。早朝でも、外は暖かい。ニーチェは研究所の庭に出て、大きく伸びをした。第一研究所は、高い塀に囲まれている。だが、奥には森がある。たくさんの小動物の鳴き声と、清々しい空気だけは、塀を乗り越えて、簡単に、ニーチェの元までやってくる。
 また猫だ。いつもいる黒い猫。額に三日月型の傷跡があるところを見ると、さぞかし、やんちゃな猫なのだろう。柔らかい気分になっているニーチェの耳元に、突然、男の声がした。
「ニーチェ」反射的だ。振り向きざまに、裏拳を放つ。だが、何も感触はない。
「待て。ニーチェ。私だ。ジョン・ポリドリだ」見えないし、気配もない。空気にしか見えない。けれどもニーチェは、彼がここにいることを確信した。
 FDD『レッドハイド』と、FDD『ノーフェイス』を、自分用に改造したのだろう。ニーチェよりも、錬金術師としてのランクが高いジョンのことだ。そのくらいのことは、やってみせてもおかしくない。
 周りには誰もいない。だが、ニーチェは、なぜか小声になった。
「どうした? もう、逃げ切ったかと思ってたのに」
「逃げようとした。逃げようとはしたのだが……」ジョンの歯切れが悪い。
「逃走してから、一週間も時間があったはずだ。それに、ジョンの腕前なら、パウル・レーの監視用Fから逃れることだって、そこまで難しいことではないだろう?」
「それなんだが……、実は……、カミーラが、病気になってしまった」
 ニーチェは驚いた。
「えっ? それは、本当に病気なの?」
 アルカディアンは、空想の生物だ。病弱という設定でもない限り、病気を発症するなんて聞いたことがない。想像通りの空想生物。それが、アルカディアンの特徴なのだ。
 だが、ジョンは、悔しそうな声で続ける。
「本当に病気だ。カミーラは、GRCにいる錬金術師によって、病気にさせられてしまったようだ」
 ニーチェは、早口で尋ねた。
「誰が犯人だかは分かるのか? その治療法は?」
「分からない。ただ、カミーラが言うには、GRCの錬金術師の一人が持っていたFによって、毒を射ちこまれたそうだ」
「どんなFなんだ?」
「なんでも、プラスチックのワニのおもちゃのようなFだったらしい。そのワニの口に噛まれると、ちょうど百日経ったら死ぬという毒を射ち込まれるそうだ」
 ワニのおもちゃ? ニーチェは、そんなFを使用する錬金術師も、アルカディアンに効く毒を射ち込めるFも、聞いたことがなかった。
「他には? どんな些細な情報でもいい」
「他には、二ヶ月ほど経つと、徐々に、体が痺れてくるそうだ。そして、再度噛まれると、また、しばらくは、普通の生活を送れるようになるらしい。背に腹は変えられず、私も、彼女の分析をさせてもらった。だが、どうしても、その毒のメカニズムが分析しきれなかった」
 ジョンほどの錬金術師でも分析できない。ということは、そのFには、おそらく、本人にしか解除できない、という制約があるのだろう。
「カミーラが、最後に噛まれたのはいつ?」
「今から二ヶ月と半分ほど前だそうだ」
 カミーラの死亡予測時間まで、あと一ヶ月もない。とはいえ、カミーラの実験は、秘密裡におこなわれていた事だ。自分とゲーテ以外、関係者は三人しかいない。
「分かった。犯人には目星がついている。少し調べてみる」
「よろしく頼む」ニーチェは、透明な手に、口紅のFDD『ノーフェイス』を渡された。透明ながらも温もりはあるし、よく見れば、気配はなくとも、歩くたびに砂埃が立っている。砂埃は不安げに揺れて消えた。それは、まるでジョンの心情を表しているかのように見えた。
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