第61話 選択 Choice

文字数 1,585文字

 十九時三十分。いつもなら、間もなく研究を終える時間だ。ちょくちょく徹夜で研究を続ける時もあるが、なんせ今日は、わざわざケーキを買いに行ってもらったのだ。通常運転でなければ、疑われる可能性がある。
 ニーチェはダイバーダウンし、自分の部屋へと戻った。監視用に飛ばしていたFDD『ドーゼンズ・オブ・チルドレン』により、カミーラが帰ってきたことも確認できている。おそらく、二十時過ぎたら部屋に来るだろう。ニーチェは、いつも通りに自室で待っていようかと思った。だが、どうしても、部屋に迎え入れて話をする自信がない。決断が、全くできていないからだ。
 それならばいっそ。ニーチェは顔を洗った後、部屋を出た。物的証拠がある部屋で話した方が、もしもの時に決断しやすい。ニーチェは、誰にも見られないようにして、クリスティアーネの部屋へと向かっていった。
 もし、誰かに見られたら、今日は決断を中止にしよう。だが、見事に、誰にも会わずに目的地へと辿り着く。こういう時は、そんなものだ。ニーチェは観念して、彼女の部屋のドアを叩いた。
 クリスティアーネは警戒しながら扉を開けた。驚いた顔つき。
「あらん。どうしたの? 珍しいじゃない」クリスティアーネは嬉しそうだ。
 部屋の明かりは蝋燭と月の光だけ。奥では、飾り付けをされたケーキが置いてある。この季節ならシュトーレンかと思ったが、シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテだ。このまま、ニーチェの部屋へと持ってきてくれるところだったのだろう。
 黒い森のサクランボケーキ。まさに、今夜にふさわしいケーキだ。
「話したいことがあって」
 ニーチェは動揺を隠しながら、恥ずかしそうな顔で、クリスティアーネのベッドに腰かけた。ふわりとした感触と共に、甘ったるい匂いが空間に舞う。この匂い。そうだ。確かに、カミーラに射たれた毒からも同じ匂いがする。ニーチェの心の天秤は、カミーラの方に傾いた。
 ニーチェの心中を、クリスティアーネは何も知らない。紅茶のポットに電源を入れ、ケーキの準備をして、ニーチェの隣に腰掛ける。
 ニーチェは、クリスティアーネをじっと見た。今までは、ゲーテが好きな女性だと思っていた。だが、今は違う。誰憚らず、好きになることも自由だ。そう思うと、彼女の丸いリスのような目は、やけに愛くるしい。自分をいつも支えてくれている小さな体は、癒しを与えてくれる。ニーチェは、この深い愛情に溺れたくなった。
 しかし、同時に。ニーチェの理性は、感情を押しとどめた。クリスティアーネは、カミーラ殺害に関与している。彼女が、『ワニのおもちゃ』のFで毒を注入したことは間違いない。彼女を殺さなければ、カミーラは生き返らない。
 ただ、カミーラ殺害は、本当に彼女の本意だったのか。それだけが問題だ。いくら吸血鬼に対してとはいえ、彼女が誰かを殺そうとするとは考えにくい。本部に弱みでも握られていたのだろうか。
 だとすれば、話は変わる。ゲーテと同じく、クリスティアーネも友だ。ここまで尽くしてくれる彼女に対して、確たる証拠もなしに手にかけるわけにはいかない。間違いだった時に、取り返しのつかない後悔をしてしまう。
 それに、もし故意でないとしたら、話せば協力してくれるかもしれない。『ワニのおもちゃ』をクリスティアーネに使用してもらって、カミーラの毒を解除できるかもしれない。ただ、本気でカミーラを排除しようとしていたのなら、仮死状態のカミーラを、今度こそ、事故と偽って殺してしまうかもしれない。
 ニーチェはやはり、二つの選択肢を選ぶことができなかった。ああ。カミーラのように、血を吸えば嘘を言っているかが分かるのであらば、どんなにいいことか。だが、無い能力は使えない。
 ニーチェは、自分の洞察力で真実を探すことにした。大事な人の命がかかっているのだ。間違いは絶対に許されない。
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