第62話 ワニのおもちゃ(1) Toy of Crocodile

文字数 1,335文字

 クリスティアーネが、ふくよかな胸を当ててくる寸前、ニーチェは立ち上がった。部屋をうろついて、棚を見るふりをする。
「これ、何?」
 偶然見つけたかのように、『ワニのおもちゃ』の入った箱を手に取る。賽は投げられた。自分の手が震えている。緊張で胸が苦しい。
 クリスティアーネが近寄ってきた。無造作に箱を取り上げ、小首を傾げる。
「何だろ?」何の躊躇もなく箱を開ける。そして、表情が明るくなった。
「ワニワニパニック! 懐かしい。どう? やらない?」クリスティアーネは、机を部屋の真ん中に引っ張り、その上に『ワニワニパニック』を置いた。プラスチックが月に照らされ、緑色に光っている。「私からやる?」言いながら、クリスティアーネは、勢いよくワニの歯を押した。
 あっ! 歯が凹む。それだけだ。何も起こらない。
「ふぃー。次はあなたの番よん」クリスティアーネは、無邪気にニーチェに言った。どう見ても、演技のようには思えない。
 このFは、アルカディアンにしか効果がない毒だ。ニーチェにだって、きっと効果がない。それでも、ニーチェには一抹の不安があった。心臓の黒薔薇、カミーラの血液が反応してしまう可能性があるからだ。
 ニーチェがこんなにも弱っているのは、おそらく、毒とは無関係ではあるまい。今回も、この『ワニのおもちゃ』によって、毒の影響を受けてしまったら……。
 ニーチェの額からは、十二月だというのに、冷や汗が浮かび上がった。
「もー。何怖がってるのよー」クリスティアーネは、ニーチェの腕を掴み、強引にワニのおもちゃについている歯を押させようとする。
 大丈夫。大丈夫に決まっているんだ。クリスティアーネが、我が友が、自分を陥れることがあろうはずがない。
 はぁ。はぁ。動悸が聞こえる。ワニの歯に指を当てる。ゆっくりと……。ダメだ。出来ない。その時、クリスティアーネの指が、ニーチェの指を上から押した。
 カチッ。うわーっ!! 拳銃の撃鉄が引かれるような音。だが、ワニの口は閉まらない。ただ、歯が沈んだだけだ。
 やはり、何も問題なかった。ニーチェは、今、ワニの歯を押したばかりの人差し指を見た。ニーチェは驚愕した。血管に沿って、青い筋のような薔薇の蔓が、ゆっくりと浮かび上がっている。その蔓は、ゆっくりと成長し、自分の掌を横切る。
 クリスティアーネが、自分の番を終えた。
「平気だったー。次は、あなたの番よん」またも無邪気にニーチェに抱きついてくる。
 ニーチェは感じた。このまま何度もワニの歯を押すことは、自分の心を殺してしまうことだ、と。蔓は、手首まで伸び、なおも二の腕を進行していく。おそらく、青い蔓は、心臓へと向かっている。動悸。同時に、深い安らぎを感じもする。復讐の黒い薔薇ではなく、安泰の青い薔薇に絡めとられたい。そんな欲望も感じる。
 血管が、次々と青い蔓と化す。ニーチェは、クリスティアーネの両肩を掴んだ。彼女は頬を赤らめ、そっと顔を近づける。
 何なんだ。この感情は。一体、僕は、どんな感情になってしまったんだ。
 ニーチェは、ゆっくりとクリスティアーネを抱きしめ、そのまま二人、ベッドに、ゆっくりと横たわる。さらに顔が近づく。クリスティアーネは目を閉じる。そして、自然に、唇が重なり合う。
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